【小説】紅を差す人(2)
林を見張り続けてまた何日か経った。伊都乃は気づいたらいるし、気づいたらいない。本当に勝手だ。
林は毎日いっしょうけんめい仕事をしている。加賀谷の家のために働いてる。もしかしたら秘密をもらしていることをごまかすために、いっしょうけんめい仕事をしているのかもしれない。たとえごまかすためでも、加賀谷の家のためになってるから、なんだか複雑な気分だ。秘密をもらすのをやめて、ただいっしょうけんめい働くだけにしてくれればいいと思う。
証拠が見つかったら、林はどうなるんだろう。やっぱり、殺されるんだろうか。おれが報告したせいで、殺されるのかな。胸の中がぐるぐるする。人が死ぬのは嫌だ。
今日も、庭で鳴いてる虫を驚かさないように林家の床下にもぐりこむ。今夜は月が出ないから、日が沈んだらそのまま闇の中だ。昨日までと同じ音が聞こえる。お客が何人か来て、晩飯が終わった。
「お前様、どちらへ?」
あれ? 寝ないのか?
「うむ、ちと人に会わねばならぬ。先に休みなさい」
「こんな遅くにですか? ちょっと、誰か灯を持っておいで。旦那様がお出かけですよ。お供をなさい」
「よい。一人でゆく」
「えっ? お一人で?」
「ああ、政務に関わる内密のことでな。先方も一人のはずだ。今聞いたこと、よそへ漏らすでないぞ」
「はい。くれぐれもお気をつけて」
政務に関わる内密のこと? もしかして、とうとう秘密をもらすのか? 胸の中はぐるぐるするけど、おれは行かなきゃいけない。行って、見て、聞いて、仁孝さまに報告しなきゃいけない。
「おい」
床下から出ると、上から声がした。屋根に登ると伊都乃がいる。忍装束を着てる。刀は持ってないけど、伊都乃からは鉄の匂いがした。見張るだけって仁孝さまに言われただろ? なんで殺すつもりでいるんだ? それに、今までどこにいたんだ? ふたりでいろと言われたのを忘れたのか? 文句を言いたかったけど、今声を出したら誰かに聞こえるかもしれない。
ちょうど裏口が開いて、灯を持った林が出ていった。伊都乃とおれはこっそり後をつけていく。月がない夜はどこもかしこも暗くて楽だ。林は頭巾をかぶっているみたいだった。お城に続く大きな通りを超えて、南へ下っていく。水の音が聞こえてくる。水路の音かな。嫌な予感がする。
「面白そうだ」
伊都乃が口元だけで笑う。この先は花街だ。あそこは嫌いだ。前に、おしろいや香油の匂いで頭が痛くなったことがあるし、四方八方から聞こえるそういう声が恥ずかしい。別の場所に行ってくれと念じたけど、林は花街に入っていった。おれたちは忍装束だから、正面からはついていけない。どうしよう。見失ってしまう。
「こちらだ」
伊都乃に腕を引っぱられた。正面の門を避けて大回りすると、水路に出る。道がぬるぬるして、酸っぱい匂いがしていた。見世の裏側だから客寄せの灯りもないし、見張りも立っていない。入り込んだはいいけど、林がどこに行ったかわからない。
「何してる。行くぞ」
伊都乃は林の目的地を知ってるらしい。いつの間に調べたんだろう。色々聞いてみたいけど、やっぱり筒声に自信がないから黙っておく。
花街の見世のいくつかには、仁孝さま配下のくのいちがいる。伊都乃が指した建物は、仁孝さまのくのいちがいない見世だった。あんまり繁盛してなさそうだ。空いてる部屋から天井裏に登るとネズミがいっせいに走った。
「奴はどこにいる? 聞こえるだろう?」
伊都乃が筒声で聞いてきた。なんだ、部屋までは知らないのか。おれは目を閉じて耳を澄ました。女の甲高い笑い声が聞こえる。お客を呼びこむ大きな声。おれの苦手な声も聞こえた。梁の上をそっと移動していくと、この十数日で聞きなれた声をつかまえた。
板の合わせをほんの少しずらして目を当てる。座敷に林と遊女(あそびめ)が座っている。
「さあさあ、もう一杯」
遊女が酒を注ぎ、林が飲む。他には誰もいない。さっき奥方に話していた「先方」はいつ来るんだろう。
「代われ。俺にも見せろ」
あっ、そうだ。林が誰かと会う予定なのを伊都乃に言わなきゃいけない。困ったな。下が静かだから余計に声が響きそうだ。
「本命ではなさそうだな。つなぎの女だろう」
そんなことはどうでもいい。林は誰かを待ってるんだ。伊都乃の肩をつついて、手で作った筒に口を当てる。伊都乃は呆れた顔をしたけど、耳を貸してくれた。
「林は誰かを待ってる」
「誰を?」
「わからない」
「そいつが情報をやり取りしている相手か?」
「たぶん」
「ならば、そいつが来たら呼べ。あるいは、濡れ場になったら」
最低だ。きれいな顔して最低なことを言うから、輪をかけて最低だ。伊都乃は近くの柱にもたれて目を閉じた。本当に見張らないつもりらしい。任務なんだぞ。仁孝さまのご命令なんだぞ。もしここが声を出していい場所で、おれがそう言っても、伊都乃はきっと聞こえないふりをすると思う。おれは諦めて下の部屋をのぞいた。
林は遊女の話をあんまり聞いていないみたいだった。ああとかうんとか適当な返事ばかりしている。つまらなそうだ。「先方」はまだ来ない。
「林さま」
部屋の外から甘ったるい声がして、襖の開く音がした。
「白菊にございます」
「おお、待ちかねたぞ。さ、入れ入れ」
林が急に元気になった。もしかして、伊都乃が言ってた本命か? 人と待ち合わせしてるのに、本命が来ていいのか? これから「先方」が来て秘密の話が始まったら追い出さなきゃいけないのに。
新しい遊女は先にいた女より若い。位も高いんだろう。着物が赤や金できらきらしてるし、かんざしもたくさんつけてる。動きにくそうな裾を引きずって林の隣に座った。おしろいの匂いが濃くなる。うう……この匂い苦手だ。おれは天井板から顔を上げて息を吸い直した。天井裏の空気だってきれいじゃないけど、ほこりとネズミの糞の方が、おしろいより慣れてる。
おれはあんまり息を吸わないようにしながら、また天井板の隙間にかがみこんだ。
「月がやせていくと、もうすぐ林さまのお越しだって思うの」
「かわいいことを言う。お前も飲め」
「あい」
さっきまでが嘘みたいに、林はよくしゃべって笑った。仕事をしているときとは全然違う。酒もどんどん飲んで、もう首まで赤い。こんなに酔っていいのか? 「先方」が来てもこれじゃ大事な話なんかできそうにない。
「ねえ、林さま」
「ん?」
「あのお話、もういっぺん聞かせてくださいな」
「はて、なんの話だ?」
遊女が林にしなだれかかる。林はにやにや笑って遊女の肩を抱き寄せた。しまりのない顔だ。遊女は林を見てるけど、林は遊女の胸の辺りしか見ていない。真面目な人だと思ってたのに、酒が入るとこうなるのか。酒って怖いな。おれは下戸でよかった。
「鉄砲をたくさん買った話」
え?
顔を上げて柱の方を見たら、伊都乃と目が合った。おれがうなずくと、伊都乃は音もなくこっちに来て隙間をのぞいた。
「お前は本当にこの話が好きだな」
「好きよ。だって、格好いいじゃない。ねえ、話して」
「よしよし。五月の末だったか、軍備について評議があった」
林は回らない舌で評議の内容を話し始めた。加賀谷家の武器の数、兵の数、兵糧に使える備蓄米の量まで全部しゃべっている。評議に関わった家臣の名前も、ずらずら並べる。なんて言っていいかわからない。あんなに真面目に仕事をしてた人が、こんなに簡単に御家の秘密をもらしている。
「くのいちだ。自覚はない。術の方か」
伊都乃が筒声を送ってきた。くのいちには二種類いる。ひとつはくのいちの術のくのいち。見世や屋敷に送り込まれて、秘密を探って術者に報告する。たいてい、自分がくのいちになってる自覚はない。もうひとつは自分がくのいちだとわかっているくのいち。仁孝さまの配下はこっちだ。秘密を探るところは、術と変わらない。
おれはくのいちの見分けなんかつかない。なんで伊都乃は見ただけでどっちのくのいちかわかるんだ?
「どうやら、貴様の言う『先方』とやらは存在しないようだぞ」
伊都乃は唇の端を上げた。おれは、秘密を売る相手がいるんだと思ってた。それが「先方」なんだと思ってた。林は悪いとわかっていて秘密をもらしているんだと思ってた。全部違った。
悔しい。思ってたことがはずれたのが悔しいんじゃない。林が悪気なんか少しもなく秘密をもらしていたことが許せない。誰かに脅されたり、金を積まれたり、謀反を企ててたり、そういう大きな理由は何もなくて、ただ酔っ払って遊女にしゃべってるだけだ。何も考えてない。御家を裏切ってることに気づいてもいないのかもしれない。おれは加賀谷家にはなんの義理もないけど、仁孝さまがいっしょうけんめい仕えている家だ。許せない。
今すぐ部屋に下りていって林を黙らせたいと思った。でも、仁孝さまはただ知らせろと言った。もどかしいけど、おれは何もできない。
「証拠は聞いた。帰ろう」
おれは伊都乃の耳元に口を寄せた。もう瞬きする間だってここにいたくない。聞けば聞くほど腹が立って、悔しくて、叫び出したいような気分になる。
「くのいちの術には、後ろに必ず術者がいる。そいつを突き止めてからでも遅くはない。あの女も、じじいも、所詮は傀儡だ」
帰りたいけど、伊都乃が言っていることは正しい。くのいちの先にいる術者を止めなければ、加賀谷の秘密はどんどん流れていってしまう。おれは怒りたいのをこらえて隙間をのぞいた。
林は鉄砲の保管場所も、いつどこに運ぶ予定かもしゃべった。くのいちは林にもたれかかって、あいづちを打っている。
「すごいのね。やっぱり林さまは素敵だわ」
「素敵か?」
「ええ、とっても」
林はにやにや笑ってくのいちを抱きしめた。帯を解いて押し倒そうとする。おれは我慢できなくなって顔を背けた。
「見張らなくていいのか? ご差配の命だろう?」
薄くて白い唇は、おれをからかうときに一等きれいな孤を描く。うるさい。こんなことになってから急に真剣に見るな。おれたちの任務は林を見張って、秘密をもらしている証拠をつかむことで、他人の濡れ場をのぞくことじゃないんだぞ。
「だめ、待って。だめってば」
「何がだめなのだ?」
「お酒を飲んだら紅が取れてしまったもの。差し直すから待ってくださいな」
「紅? そんなもの後でよかろう。どうせ取れる」
「女心のわからないお人ねぇ。せっかく林さまのお相手をするのだから、きれいにしたいのよ」
「わからんなあ。まあ、好きにせよ」
「はあい」
「まだか?」
「まぁだ」
「遅いぞ」
「丁寧に塗っているからよ。ねえ、見て。きれいでしょう?」
「わかったわかった。さあ、こちらに来い」
「ふふふ、かわいがってくださいな」
「紅が取れるぞ」
「取ってほしくて塗っているの」
「女はわからんなあ」
着物が擦れる音がして、合間に水っぽい音がして、おれは耳をふさぎたくなった。
「ぐ、ぅっ……がっ……!」
変な声が聞こえて、おれは隙間にかがみこんだ。林がもがいてる。顔が紫色になって、口から泡を噴いていた。毒だ。伊都乃を押しのけて天井板を外す。下に降りるとくのいちが短く悲鳴を上げた。
「しっかりしろ!」
林は胸を掻きむしってびくびく痙攣している。
伊都乃が降りてくる。
吐かせなきゃ。口の中に指を突っ込もうと思ったら、林はぐるんと白目をむいた。舌がだらんと口から出ている。嫌な臭いがして、林の袴の色が変わっていく。林はもう動かない。
がちゃがちゃ音がして振り返ると、今度はくのいちが喉を抑えていた。震える手で徳利をつかんでいる。袖から小さな白い包みを出して、徳利の上で破った。白い粉はほとんど徳利の外にこぼれた。
伊都乃があざけるように笑う。嫌な予感がした。
「それを飲んでも助からんぞ。まあ、飲まずとも助からんだろうがな」
「やめろ! 飲むな!」
くのいちは一瞬伊都乃を見上げて、おれを見て、酒を飲んだ。拳で拭った口元から、紅が真横に線を引く。くのいちは安心したように笑った。その顔が紫色になる。目を見開いてもがく。床をがりがり引っかく。くのいちは林よりたくさんの泡を噴いて、それから、動かなくなった。
何がなんだかわからない。ほんの二呼吸くらいの間しかなかった。人が死んだ。二人も。
「やられたな。術者の方が上手だった。いや、俺たちが遅かったと言うべきか」
伊都乃はつまらなそうに言って、くのいちの袖の中を探った。
「なんで?」
「何がだ?」
「なんで、二人とも死んだんだ?」
「じじいはこれだ」
伊都乃のてのひらにハマグリがのっている。中は真っ赤だった。
「毒を含ませた紅だ。術者は手練れだな。唇に毒を塗れと命じられるほど女を心酔させている。それだけの度胸がある女を選んでいる。女はこっちの薬で死んだ。恐らく紅と同じ毒だ。解毒剤とでも言い含めたんだろう。用意がいい」
そんなことが聞きたいんじゃない。
「なんで、二人とも死ななきゃいけないんだ?」
「用がなくなったからだろう? じじいは一通りしゃべった。女は一通り聞き出した」
「でも、殺さなくてもよかったはずだ」
林にはもうしゃべらせるのをやめさせればいい。くのいちには聞き出さないように命じればいい。二人とも放っておけばよかったんだ。
「阿呆。女は術者の顔を知っているんだぞ。いらぬことをべらべらしゃべられたらどうする。術が解けたら逆恨みする女もいる。面倒なことになる前に始末するのが一番だ」
「そんな言い方するな!」
「大声を出すな。人が来る。見るものは見た。戻るぞ」
伊都乃は軽く床を蹴って天井の穴に飛びついた。おれは身体にうまく力が入らなくて、ゆっくりしか立ち上がれない。林もくのいちも白目をむいている。泡を噴いて、小便を垂れ流して、死んでいる。さっきまで酔っ払って笑ってしゃべっていたのに、甘ったるい声でしなだれかかっていたのに、もう動かない。
おれが許せないと思った林はいなくなってしまった。ここにあるのは抜け殻だ。林を許せないと思ったおれの気持ちも、いつの間にかどこかに行ってしまった。おれは生きてここにいるのに、おれの気持ちはどこに行ったんだろう。
《続》
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