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【編集長後記】#3 「みんな、弱いから」格闘家リダ・ハイサム

かつて編集長を務めていた「スポーツ×ヒューマン」HPの為に書いた文章の過去ログです。一般的にはほぼ無名な格闘家を取り上げた回。実は他の回より視聴率が良く驚いた記憶があります。

身長2m近い恵まれた肉体と桜庭和志が認める関節技を持つ男。でもガーナからやってきた格闘家、リダ・ハイサムは決して「強く」ない。母親に励まされて涙を流し、敗戦直後の練習では気持ちの入らない姿を見せてレジェンド岡見勇信にどやされる。


さびしかった。強くなりたかった。でもまた負けてしまった。大男は肩を落とし、僕らはその姿から目が離せない。

格闘技は不思議なスポーツだ。相手の急所を打ち、関節を逆に曲げ、頸動脈を締める。野蛮と思う人もいるけれど、格闘技(特に寝技)の達人には知的で優しい人が多い。なぜだろう。

寝技の技術はとても論理的、筋肉を鍛えるだけでは勝てない。何気ない袖を取る動きが2手3手先の動きの布石であり、その「意味」を理解しなければ、知らぬ間に有利な体勢を奪われ関節を極められている。

体をぶつけ合いながら格闘家は考え、感じている。相手が何をしようとしているのか。どれくらいの力や技量を持っているのか。

腕をとると見せかけて狙いは足。わざと隙を見せてその動きを利用してのカウンターのムーブ。自分の仕掛けはバレてないか。相手のスタミナはまだ残っているか。相手の心に乱れがあればそれも感じ取る。

お前はどれくらい強いのか。そして弱いのか。日々のスパーリングや厳しい実戦の緊張感の中で、格闘家は無限の会話を重ね年輪を刻んでいく。

ガーナからやってきたとき、ハイサムはひとりぼっちだった。働きに出る親の代わりに幼い兄弟の面倒を見て、団地のベランダから同年代の子どもが遊ぶのを見つめるだけ日々。

でもその孤独に気づいてくれる人がいた。地元で柔術を教えていた山田さんは体ばかり大きくて困難に立ち向かえないハイサムの弱さをすぐに見て取った。教えたのは、格闘技の技術だけじゃなかった。

負けた相手にもう一度戦わせる。また負ける。でも「もう一丁」。次第にハイサムは変わっていく。そして語られる初勝利の、とびきりのエピソード。デジタルビデオの荒い画像のなかで、ハイサムは柔術着を脱ぎ捨てて、気持ちを爆発させる。

自分の弱さを鍛えてくれる師匠に出会えたこと。それはハイサムがめぐりあった幸運。一方で疑問も浮かぶ。なぜハイサムは出会うことができたんだろう。それは本当に運なのか。そして僕らはなぜ、ガーナ人格闘家ハイサムに惹きつけられるのか。

後楽園ホールでのライバルとの決戦、勝負はあまりにもあっけなかった。クラマックスの試合が秒殺負けに終わって喜ぶ制作者はいない。大きな不安に襲われる。しかしそれは物語にとって決してマイナスではなかった。そして気づく。僕らがハイサムの「弱さ」に惹きつけられていた事を。

格闘技は不思議なスポーツだ。鍛え上げた体を激しくぶつけあう姿。それを見ているとなぜか僕らの体温もあがる。なぜか気持ちが高揚してくる。原初の闘争本能、だけではない。そこには人間のコミュニケーションの原点があるように思える。

「諦めるな」「そこで踏ん張れ」「まだまだ。お前はそんなもんじゃないだろう」格闘家たちは体をぶつけあいながら、自分に、相手に、そして見る人にも伝えているようだ。

強さを知る人は、弱さも知っている。むしろ誰もが抱える弱さは、人がわかりあえるための大切な手がかりなのかもしれない。

ハイサムがさらけ出す真っすぐな「弱さ」。それこそが、彼を支える和や輪につながっていったのではないかと。

みんな弱いし、みんな苦しんでいる。でもそれをぶつけあい、わかちあえた時、僕らの弱さはもう弱さではない。

ラストシーン。もっと強くなりたいとアメリカに渡ったハイサム。向こうでもきっとクヨクヨしてるはずだ。

そしてそんなハイサムに差し伸べられる手が、きっとあるはずだ。


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