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情熱大陸「ゆりやんレトリィバァ」感想

期待を持って見た。
女性芸人ゆりやんレトリィバァの情熱大陸。テーマは「怒り」だと言う。

「彼女の笑いは怒りから生み出されている」

そのテーマは、彼女の佇まいにふさわしく思えた。
ゆりやんは何に怒っているのか? オープニングで紹介されるのは、何かに怒り泣き叫ぶゆりあんの姿。どんなストーリーが待ち受けているのか。期待を持って見始めた。

結論から言えば、期待された答えは明確には提示されなかった。ドラマ撮影や怪我などの事情があったのか、密着の度合いは薄かった。それでも退屈ではなかった。妙に引っかかる番組。それは彼女の存在感なのか。この違和感はどこから来るのか。

お笑い芸人の面白さと難しさ。常識の枠を乗り越えるのがお笑いのようでいて、その常識の「枠」に強く縛られているのもお笑いの世界のようにも思える。

それは、女性の芸人であれば尚更だ。年齢や容姿。女性芸人はこうあるべき。その「べき」に意識的な芸人は客を笑わせることと同時に、その常識に挑むこととの両面の戦いを強いられている。

こういう立ち振る舞いをしないといけないとか、
これができないと「使えない奴」とか、そういう枠を取っ払いたい。

前半に置かれたインタビュー。彼女独特の舌足らずな言葉で語られるけれども、それはリアルだ。しかし、このインタビューから出発した番組は、そのテーマを深めていくことをしない。

リニューアル後の情熱大陸で付加されるようになった右上のテロップ。そこにはこう記されていた。

「こんなマジメな一面があったとは… アメリカ進出って本気!?」

番組中ずっと表示されたテロップ。それは、視聴者の関心を惹くためのものであり、制作者が設定する視聴者層の「気分」だったのだろう。

彼女の今とはちょっと距離を置いたような言葉。
つまりそれは、ゆりやんが語った「枠」そのもののようにも感じた。

番組を通して、彼女のアメリカ挑戦は「熱」を持って描かれない。渡米してのライブハウスでの挑戦も、微妙な下ネタを繰り出して滑ったけどオファーは受けた、みたいなトーン。

日本のお笑い芸人が本場アメリカに挑戦する。そんなニュースはこれまでもあった。そんな時のニュースには、いつも「痛々しさ」が感じられた。それは2つの意味がある。

「日本でも天下を取った訳でもないのに、アメリカで通用する訳ない」という痛々しさ。でも、それだけじゃない。

その「痛さ」の奥にはもうひとつの痛さがある。それは、日本の芸人、日本のお笑いが「世界で通用する訳がない」と決めつけている「僕たち」の痛々しさだ。それは、この番組でも感じられた。もしかしたら、僕の先入観がそう感じさせたのかもしれないけれど。

1995年。野茂英雄が大リーグに挑戦した時のことを思い出す。

野茂が活躍し、アメリカに大フィーバーを起こす前、日本のスポーツマスコミの論調は冷笑的なものだった。プロ野球界の不文律を越えてアメリカに渡った野茂に対して「どうせ失敗するに決まっている」というムードが満ち溢れていた。それは、新庄剛志がアメリカに行った時も。失敗して帰ってきたら恥ずかしいぞ。そんな心持ちは、恥ずかしいけど僕らの中にある。

あの頃の大リーグ挑戦者にはどこか「脱藩者」の香りが漂っていた。日本のプロ野球にも年功序列の縛りや茶髪禁止の謎ルールや、数々の「枠」が多かった。でも、恩義のある先輩を批判することはできない心優しい若者が、自由と挑戦を求めて海を渡っていった。そんな選手たちはアメリカで、自由に髭を生やし、日本で見たことのない笑顔を笑っていた。

ゆりやんが怒っていた。そしてその「怒り」に番組は距離を置いているように見えた。でも、そのことで彼女の怒りは、よりはっきりと伝わってきた。

番組の後半。冒頭で心を惹きつけた彼女が泣き叫ぶシーンが訪れる。それは、彼女が食べたかった「肉吸い」がデリバリーのトラブルで届かない、というシーンだった。

それは番組上では、彼女の精神的な不安定さを伝えるシーンであり、次の瞬間、そのことをネタにしてしまう芸人根性、みたいなシーンとして描かれていた。

でも、伝わってきたのはそれだけではなかった。

彼女は「もう腹立つ!なんなん!!」「腹立つ!」と繰り返し叫んでいた。それは、デリバリーに対しての怒りだけではないように思えた。

思い通りにいかないこと、納得できないことばかりの今。それに対する怒り。

がんばれ、ゆりやん。と思った。


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