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ベリルの眷属

一  前夜
 
  赤江環(たまき)は、廊下を歩いていた。下を向いてのろのろと進む環の背中を、後から来た児童数人が追い越してゆく。
 双馬藩立児童養護施設「双善園」の大食堂に児童生徒たちが三々五々、集まってくる。列に並び、上面がざらついた茶色の合成樹脂製トレーを取って、厨房の窓口から配膳を受ける。環も列に加わり、順番を待った。
 五月。暦が変わって、日が浅い。園庭の木々の間からこぼれる陽光は、心を浮き立たせる。しかし、陽が落ちると、同じ木々を伝わる風は肌に少し冷たい。そんな夕方。
 八歳になる環の装いは、薄いブルーの丸襟ブラウスに、膝丈の黒いスカート。紺のソックスに黒革のワンストラップシューズを履いている。この施設の制服であり、並んでいる他の女の子たちもみな着用している。ただ、前後の女の子たちは自分の体を服に合わせてでもいるかのように、どうもしっくりこないようだが、環の場合は、服のほうが彼女に合わせているように見えた。地味な服装のはずなのに、輝く。だが、もっと目を引くのは、環の髪の色だろう。いわゆる赤毛で、しかも一般的なものよりも濃い、赤褐色(オーバーン)と呼ばれる領域に入っている。それが不規則に波を打ち、背中の真ん中まで伸びて遊んでいる。前髪は無造作に垂らし、瞳や額を半分隠して、曲がりくねって顔の周りを囲っている。あたかも、俯けた無表情な顔を隠し、外からの視線を遮るかのように。
 環の順番が回ってきた。トレーを配膳窓口に置く。白い合成樹脂製の丸いスープ皿に、根菜類やベーコンの角切りが混じった赤い液体がレードルで注がれる。ミネストローネだ。イタリアに起源を持ち、「具沢山のスープ」という意味らしい。白い合成樹脂製平皿には丸パン二個に固形バター。透明な合成樹脂製のグラスに牛乳。それが全てで、受領すると、環は横の机に置いてある、カトラリーが種類ごとに収められた箱から、スプーンとバターナイフを取ってトレーに置いた。それから空いている隅の方の席を目指して歩き始めた。
 環は見つけた席の長机の上に自分のトレーを静かに置いた。俯いたまま椅子を引き、そっと座る。そのまま食事が終わるまで下を向いているつもりだった。だが、いきなり発生した無遠慮な音に、思わず顔を向ける羽目になる。隣の席にやってきた男子が、運んできたトレーを無造作に投げ出すように置いたのだ。トレーと机が、さらに食器やカトラリーとトレーが、耳障りな衝突音を立ててから落ち着いた。そんな振動を加えたら、内容物が飛び散るのではないかと思うのだが、音を発生させた当の本人はお構いなし。しかし不思議なことに、それぞれの容器の内容物は、トレーや机の上には散乱していないようだ。
(変な奴…)
環はかすかに顔を横に向けた。そこからは眼球を横に回転させ、隣にやってきた者を盗み見た。視界に入った黒髪の短髪。前髪を少したてている。やはり薄いブルーのシャツだが角襟で、黒い半ズボンを履いている。この施設の男子の制服だが、行儀よく着込んでいるかというと、その反対。シャツの襟ははだけて、裾は当然出している。靴に至っては踵を踏んづけて、はだしでスリッパのように履いている。極め付けは半ズボンの後ポケットに手製のパチンコを突っ込んだまま。そこだけシャツの裾が引っ掛かっている。環が視線を上に向けると、相手と目が合った。こちらを見ている。不敵な面構えの少年が、片頬を上げてにやりとわらう。渋谷拓郎。環より確か一つか二つ年下だ。環は視線の絡まりあいを断ち切るように、眼球を正面に戻した。
「そんなんで大丈夫か?」
「何が」
からかいを含んで投げかけられた言葉に、関わりを絶った気になっていた環は思わず明確に渋谷の方を向いた。伏せられていた瞳が大きく開き、渋谷を見る。うねった赤い髪の毛の障壁の奥で、整った白い貌が少し無表情を崩す。渋谷はこれを見るのが面白い。
「そんな少なくちゃ腹減っちまうんじゃねえかとおもってよ」
言われて環は渋谷のトレーの上を見た。環の瞳がさらに大きくなった。スープ皿のふちまでなみなみと注がれたミネストローネ。しかも具材がこれでもかと詰められたような盛り付け具合。渋谷の歯並びがむき出しになり、その間から音のない笑い声が漏れる。目を見張った環の緑がかった瞳がはっきりと見られるようになって、それがまた面白いのだ。
「あきれた…。そんなに盛らなくったって、あとでまた取りに行けばいいじゃないの…」
「のんきだなあ。あとでなんて言ってて、なくなっちまったらどうすんだい。もらえるときにもらっとくんだよ。すこしわけてやろうか」
「い、ら、な、い」
「なんだよ人が親切に」
二人の会話の雲行きが怪しくなろうとしたその時、ざわつく食堂の前の方に寮母が現れた。二人は会話を打ち切り、寮母の方を見た。寮母は静粛を求める指示を出している。徐々に雑音が消えてゆく。環は視線を前下方に戻した。また小さくなって、寮母の言葉を待った。
「皆さん、大事なお知らせがあります」
俯いたまま、環は眼球を少し寮母の言葉の方に向けた。
「明日は朝九時から藩主様の御夫人が慰問にいらっしゃいます。いらっしゃったら全員でお迎えいたします。身支度を整え、失礼のないようにご挨拶するのですよ。いいですね。」
連絡事項を伝え終わった寮母が引き取ってしまうと、密やかな声がそこかしこで起こり、次第に音量を増してゆく。食事の時間が再開した。
 ミネストローネの赤い水面を見つめていた環は、やがておもむろにスプーンを取り、一匙掬って口に運んだ。不味くはない。だが、環は食事が好きではなかった。もう少し言うと、「児童養護施設(ここ)での食事」が、だ。あるいは「ここへ来ることになった原因が起こってから以降の食事」と言うべきか。味や量など、内容に不満があるわけではない。正直に言えば、食べることそのものに、気持ちが向かないのだ。ここに来て、一年ちょっと。最初の頃のように、スープの水面に涙を落とすようなことはなくなった。が、いまもあまり気が晴れない。
(違う)
お母さんの、ミネストローネは、こんなふうではなかった。水っぽすぎる。もっと、煮詰まって、でも、ぼってりしているのではなくて…お父さんも、大好きで…
思い出すからだ。ことごとく、違う。その度に、母を、父を、思い出す。やりきれなかった。
今日のスープ皿の水面には、波紋を作るようなことはなかったが、次の一匙は最初の一匙より、だんだんしょっぱくなるような気がする。
 ふと、横を見ると、渋谷が食べている。さっきのちょっかいはどこへやら、一心不乱といった体でがつがつと猛然、スプーンを皿と口とのあいだで往復させている。かと思うと口唇を閉じたまま下顎を大きく開閉し、口一杯に詰め込んだ根菜やベーコンを心ゆくまで咀嚼している。環はスプーンを持ったまま、手を止めた。その唇はわずかに開いたまま、隣の様子に視線が留まっている。
「うめぇぞ。おめぇも早く喰ってもっともらってこいよ」
環の視線に気づいた渋谷がミネストローネの具を口にいっぱい詰めたまましゃべった。だから、その内容は環が解読し、再生したもので、実際は何をいっているのか聞き取りにくかった。
環の鼻に思わず笑いが漏れ出た。それがじわじわ口の周りに伝染する。曇天の下、灰色の不毛の地だったところに突然、陽の光が射し、無数の小さくて可憐な白い花が音もなく一斉に咲いたようになる。
 環がすぐに下を向いてしまう前に、その滅多に目にしたことがないものを一瞬垣間見た渋谷は、それを記憶に留めつつ、小刻みに肩を震わせて笑いを噛み殺している環の俯いた横顔を見た。劣勢を挽回しようと頭を巡らす。赤江環は下を向いているために、多分こちらの内心は悟られていないと無意識に踏んでいる。
「明日はいい子にしてないとな。滅多にないチャンスだぜ」
「えっ?」
意図のわからない言葉に驚いて、環は顔を上げた。その目に映った渋谷は、もう劣勢を押し隠した後だった。いつものように不敵な雰囲気を纏っている。
「えっ?て、おめえ…、偉いさんがくるんじゃねえか。いい子にしててお眼鏡に叶や、金持ちのいい里親に紹介してもらえっかもしれねえじゃん。」
「里親…」
「そうよ。」
「ここから、出たいってこと?」
「ったりめえだろぉ。おりゃ、こんなとこ、早くおさらばしてぇんだよ。まあ、飯が食えるのはいいけど。だけど規則ばっかで息がつまらあ。自分で自由にどこへでも出かけてえんだ。なんでも自分のやりたいようにやりてえんだよ。そんためにゃ演技、ゴマスリ、なんでもやるぜ。」
「でも…、ずっと演技をつづけてられないでしょ。その、ばれちゃったら…」
「引き取ってもらうまででいいんだよ。出ちまやあこっちのもんだ。あとは野となれ山となれさ。なんとでもすらあ。」
「そんな」
「おめえは出たくねえのか?ずっとここにいるつもりかよ。」
「そんなことは…」
ないけど、と、音を出さずに言って、しかし、その後が続かない。環は視線を自分の前に戻す。でも、どうしたらいいんだろう。ずっとここにいるはずはないけど。いられるはずはないけど。いったい、どうしたら…。
静かになってしまった環を見て、渋谷は少し焦った。ふと、お前も一緒に出ていかないか、という言葉が生まれた。が、なぜか喉の前で止まって出てこない。言いたくても、言ってはならないような気がして。やがてゆっくり食事を再開した環の様子を見て、安堵する。そして自分を励ますようにしゃべり出した。
「まあ、うまくやるさ。絶対出ていってやる。絶対な。」
言って自分も再び食い始めた。無理やり掻き込むようにしてミネストローネの具を口に詰める。乱暴に咀嚼して、先刻生まれて喉に詰まったままの言葉と一緒に飲み込んだ。その時横目で窺った渋谷の瞳には、静かに食事を続ける環の姿が映っていた。

二 慰問当日
 

 休日の空は気持ち良く晴れ渡り、双馬藩中村城の堀の水面や、石垣の上に植わった木々や、街路樹の緑と鮮やかに対比を成している。その空の下、大手門から姿を現した黒塗りの高級車が三台、車列を組んで街道を進んでゆく。先頭と後尾の車には、黒服の警護官がそれぞれ四人づつ、合計八人乗り込んでいる。中央の車には運転席と助手席にやはり黒服の警護官が乗っており、開閉できる窓の備わった防音仕様の仕切りで隔てられた後部座席には、女性と少年が腰掛けていた。女性は歳の頃は三十台後半から四十台初めくらいか、豊かな黒髪が緩く波打ち、肩のあたりまである。どことなく威厳があり、少し近寄り難い。それは、微かに寄った眉根が晴れることなく、そのまま固まったせいかもしれない。だが、濃い眉と長く艶やかな睫毛は、くっきりとした端正な顔立ちと調和をとっており、微笑すれば大抵の男を魅了するだろう。暗赤褐色(マルーン)の膝下スカートとスーツに身を包み、手元の資料に目を落としている。その隣には、前方を向いて少年が座っていた。十代中頃から後半ぐらいで、黒髪を後ろに撫でつけている。眉間にはっきり皺が寄り、不満そうな半眼が眉の下に収まっている。顔立ちは整っていて、どことなく隣の女性と似通っているが、流石に下顎の輪郭は女性のそれより角張ってきている。詰襟に両側胸ポケットのある黄土色(カーキ)の上着を腰のベルトで留め、同じく黄土色の軍袴(ズボン)に膝までの茶皮の長靴(ちょうか)を履いている。少年は退屈しのぎに女性を一瞥した。薄い板状の機器の上に、実体の本と同じ、三次元形式で現出させたページを繰る女性の手元をしばらく見た後、女性の胸元に目を移す。そこには、長さ約二センチメートル、直径約一センチメートルほどの六角柱状の濃い緑の透明な石が金の枠に収まって、金の鎖に吊られていた。
「母上」
唐突に呼びかけられて、女性は資料から顔をあげ、少年を見た。
「それは高価(たか)いのでしょう?」
女性は少年の言葉の意味がわからず、問いかけた。
「なんです?」
「首元の、それです。」
言われて女性は自分のペンダントに目を落とした。それからまた少年のほうに顔を向けた。
「それほどでもないですが、まあ、それなりの値段はします。」
「くださいよ」
「えっ?」
「今すぐにとは言いませんが、欲しいのです。」
「おまえは…男の子でしょう。なぜこのようなものを」
「欲しいと言ったら欲しいのです。せっかくの休日に孤児院、ではなかった児童養護施設の慰問に付き合わされるのですから、その対価としてもいいではないですか」
「せっかくのとは、おまえ…」
「だって、そうでしょう。士官学校のたまの休みに帰ってこいと言われて、帰ったらこれだ。僕だって忙しいし、やりたいことがあるのです。慰問なんて僕にとっては時間の無駄です。早く終わらせて帰りたいのですよ。」
「時間の、無駄?…おまえは、なんということを…。あそこの子供たちは、藩の軍役で亡くなった方々の遺児が大半を占めているのですよ。わかっているのですか」
「知っていますよ。しかし藩士や領民が藩主のために命を捧げるのは当然でしょう。だったら藩がその子供たちの面倒を見る筋合いはありません。それなのに藩がわざわざその遺児たちの世話をしているのですから、感謝されていいはずです。しかしそれをおおっぴらに言っては民心を失う。それを防ぐための児童養護施設であり、慰問でしょう?懐柔であり、演技ですね。」
「藩士や領民の方々の献身は当然ではない!考えを改めなさい!藩士領民の皆様あっての藩です!」
女性は眉間にはっきりと皺を寄せ、少年を睨みつけた。少年はたじろぐ様子も見せず、むしろ少しおどけたような、茶化すような視線を女性に返した。女性はしばらく厳しい表情のまま少年を見つめたあと、眉間のきつい皺を解き、悲しそうな目をして音の無いため息をついた。
「次期藩主として、おまえにはもっと他を思いやる心を養ってほしいと、つねづね思っているのです。だから慰問に同道させたのですよ。藩主としてふさわしい言動をとればこそ、藩士や領民の方々もそれに応えてくださるのです。藩主は絶対者ではないのですよ。」
「はい、わかりました。そのようにいたします。」
言って少年はもうそれ以上、女性と言葉を交わそうとはせず、すました顔を前に向けたままにするつもりのようだ。女性はしばらく少年の横顔を見つめたまま、動かなかった。やがて深く息を吸うと、書類の方に目を移し、続きを読み始めた。
「何を読んでいるのですか」
没交渉に徹しようとしていた少年が、しばらくすると退屈に抗えず女性に質問した。
「施設にいる子供たちの資料です」
少年の方に目を向けずに応えた女性の、ページを繰る手がふと止まった。
そのページを見ていて、女性は少年が資料を見ようと近づいたことに気づいた。少年が覗き込む直前に、平静を装って次のページを繰った。少年の目に映ったのは、女性が手を止めたページ以降の、彼にとってどうでもいい児童生徒たちの顔写真と、規定の書式に則った、彼にとって意味のない情報の羅列だった。
 女性と少年の様子を仕切りの窓越しにバックミラーで見ていた、助手席に座る髭面の年配の警護官、梅鉢の口からため息がもれた。隣の運転席に座る若手の警護官、松田がその横顔をちらりと一瞥した。
「どうしました?」
「いや」
梅鉢は腕を組み、シートに深くもたれた。二人とも色の濃いサングラスをかけているため、瞳の色はうかがえない。
「孤児院の慰問のお供なんぞ、退屈ですからねえ」
松田がたまらんと言うふうに右手を軽く上げて振った。
「お前も同じ意見か…若殿と」
「は?」
「いや、まあ」
車列は城から南西に進み、途中北西からの街道との交差点で左折すると、南南東に方向を変えた。それから程なくして宇多川にかかる清水橋を渡った。
「こういう地味なお役目も、こつこつ務めてりゃ評価上がりますよね。」
「さあなあ…」
「若殿の専属になれたらなあ。」
松田も腕を組んだ。
「なんでだ」
「給料上がりますからね。」
「配属先なぞ我らが勝手に決められるわけなかろう。それに、若殿のお付きになったところで、いいとは限らんぞ。」
「何言ってるんですか。次期藩主ですよ?」
「我らの仕事は、指定された要人の警護だ。余計なことは考えるな。ほら、もうそろそろ着くぞ。」
 橋を渡ってすぐの脇道へ入る角を曲がると、松田の目の前でステアリングは小刻みに左右の回転を繰り返し、細く曲がりくねった道にそって車を導いてゆく。静かな集落の中の道をゆくと、その先に濃い生垣とその内側に立つ建物の外壁と屋根が見えてきた。

 もうずいぶん前から並んでる。
 八時ごろからだから、一時間くらいかな。お出迎えするんだって言われて園庭に集められて、ああでもないこうでもないって言われて、横一列に並ぶんだって言われて、あっちだこっちだって言われて、でもグループごとに集まって迎えたほうがいいって言われて学年ごとに集まって、でもやっぱり横一列に園の入り口まで並んでってまた言われて、それからまた並んで、待ってる。
 はあ…。
 足元の砂。土。石。ちょっと蹴ってみる。つまんない。いつ来るのかな。早く来て、早く終わらないかな。もう、いいでしょう?石なんか蹴ったって、なんにもならないか…。ばかみたい…。
 渋谷のやつ、愛想振りまくんだって言ってたっけ。おべっかつかうのかな。よくそんなことできるな…。私には、できない。だって、こわいひとで、しかられるかもしれないじゃない。あいつ、私より少し門のほうにいるけど、なんて言うか聞こえてくるかしら。
「お着きになりましたよ!」
環の思考は寮母の声で中断した。周囲のざわめきが静まって、皆居住まいを正しているようだ。足元に落としていた視線を少し門の方にずらすと、目の端に黒い車が引っかかり、そこから人らしいものが降りて動くのが見えた。それだけ確認すると、環は視線をまた足元に戻す。園庭の乾いた土と砂と小石は動かず、じっと眺めていると、それも意味をなさない単なる模様と化してゆく。
 遠くから挨拶を交わす声が伝わってくる。なんにも知らない小さな子。元気な大声を張り上げている。それがだんだん近づいてくる。近づいてくるに従って、あいさつの声は小さくなってくる。渋谷のところで大きくなるはず。大きくなるんだろうか。なにか変わったこと言うんだろうか。渋谷のところにはもう来たのかな。
不意に環の視界に黒いパンプスの足先が入った。そこから伸びる細く長い足と、深く濃い紅のスカートの裾も。
「こんにちは」
 どこか遠くから響いてくるような、声。しかし、それは環の鼓膜を強く傷つけるような鋭い縁を持っておらず、まるく、柔らかい。
 一度言われただけなのに、音を鼓膜が捕らえたのは一回だけなのに、何回も繰り返す。しまいにはその音だけで、周囲の雑音はないことに気が付く。それは、多分、環の脳が何度も再生したくって、そうしていたのだろう。
 環は挨拶を返したかった。返さないといけないと思った。だが、ふり仰ぐわけにはいかない。ふり仰いでは、いけない。ふり仰いだら、顔を向けたら。
 思いがけない、声。やってくるのは、こわいひと。そう思っていた。こわいひと。きっと。そうだと思っていた。こわいひと。…か?こわいひと。…では、ない?
 黒いパンプスは、じっと待っている。かなり長い時間のように思えたが、数秒だったかもしれない。やがて、左の方に歩み去り、環の視界から消えた。
 なんで?返さなかった?挨拶を。なんで。返さなかった。挨拶を。なんで。なんで。もう、会えないじゃない。せっかく、似ていたのに。同じ感じが、したのに。なんで。ばか。なんで。ばか、ばか!なんで!せっかく、せっかく…挨拶しとけば、でも、挨拶すれば、すれば、…かなしくなる。だって、“似ているだけ”だって、わかってしまう、から…。
「…夫かい、きみ。ねえ、大丈夫?」
不意をつかれた。環は思わずその新たな別の声に反応し、その方向に目を向けた。胸を締め付けていた何本もの薄藤色のなめらかな綱が、その声によって消失した。若い男の顔が映る。その男の瞳が一瞬大きくなってまた戻ったように感じた。若い男は自分の顔をしげしげと眺めている。若い男は正負零の視線で観察すること数秒、その顔にうずうずと何物かが発生しはじめた。同時に、環の胸の前の円周上から、暗色で粗造な表面性状を持つ、溶岩製の強固な突起が数多く中心に向かってざわざわと生え出し、先端を固く組み合わせた。見えない拒絶の盾が完成する。その陰で環は無意識に俯いて体を引いた。若い男はそれに追随するように体を押し込んできた。児童生徒の列が環のところで後ろに食い込み折れ曲がる。
「泣いているから心配だよ。ほら、涙をふ」
若い男はポケットからハンカチを取り出して強引に環の頬を拭おうとした。若い男の声が不意に止まり、動きも止まった。頭だけは少し下げたようだった。
 そのまま若い男は後ろに軽く下がりながら背後に首を向けて、虚空に何かを探している。それから、また門の方向に戻ろうとした。その時、列の先の方から声がかかる。
「陽次郎、いらっしゃい。園長先生に、まずご挨拶しますよ。」
黄土色の軍袴に茶の長靴を履いた足は門の方向に進みたそうに苛立っていたが、やむなく踵を返し、元の進行方向に向かった。環が詰めていた息を吐いたのは、その茶色い残像が下を向いた視界から消えてからだった。
 暗色の固い突起群が複雑強固に絡み合いながらできた円盤状の盾がぐいと押されて胸に触った際の、粗造な表面の圧迫が解除され、しかしそれがまだ残っているようだった。息を吐くことでちぢこまった胸の皺が伸ばされてゆく。自身が押し込まれたせいでできた児童生徒の列の窪みを直すべく、環は一歩踏み出した。その時、ふと右手の門の方を向くと、列をつくる児童生徒の背中が見えた。数人先、男子の背中。後ろ手にパチンコを持って、ズボンにきっちり入れ込んであるシャツの裾を反対の手で引っ張り上げると、素早くパチンコをズボンに差し込んで同時にまたシャツの裾を突っ込んでいる。
 環はパチンコで少し膨らんだ男子の腰の辺りから目を離すことが出来ず、しばらくそうしていそうだったが、寮母の解散の声がそれを断ち切った。
 列は崩れ、児童たちは思い思いの場所へ散ってゆく。
 パチンコをしまい込んだ背中はこちらを振り返ることなく、仲間と連れ立っていった。
 

三  激突

 藩主夫人に随行して、警護官の梅鉢と松田は園長室の戸口に並んで立った。部屋の中では夫人と園長との歓談が続いているようで、しばらく何の指示もない。学校など、教育機関系統の施設に漂う、飾り気のない機能重視の内装の雰囲気。合成樹脂張りの廊下に、白いペンキの壁面。そっけないアルミサッシの窓枠にガラス。園庭で遊ぶ子供たちの声が微かに聞こえてくる。申し訳程度の容れ物。一時的な、仮容器。だから、しかたないのかもしれない。だれも、自分のものとして、自分のこととして、考えない。だから、こうなのかもしれない。もう何度も訪れたこの施設と、いま目にしているこの無機質な内装がきっかけとなって思い起こされた、自身が過ごして卒業してきた学校たちの内部との記憶を突き合わせて、梅鉢がその殺風景さに少し辟易していると、突然扉が開いた。ついで出てきたのは、若殿だった。梅鉢たちの方を見ることもなく、そのまま廊下を歩いて去ってゆく。松田が若殿のほうを見、ついで梅鉢の方を見た。困惑しているのか、サングラスの上からでも眉根を寄せているのがわかる。
「どうします。追いますか」
「待て」
梅鉢は去ってゆく若殿の背中を見た。
「我らはお方様の警護のため、ここを動くわけにはいかん」
梅鉢は若殿の背から目を離し、正面を向いた。
(岡本、三池。若殿が園長室を出られた。おそらく建物の外に出られるはずだ。付け。様子を送れ。)
梅鉢の言葉が松田を含む全ての警護官の頭に響いた。松田は対応が決まってひとまず安堵する。梅鉢の横顔から目を離し、自身も再び前を向いた。梅鉢がぼそりと声を出した。
「退屈になったらしい。ちょっと出てくるとよ。」
松田は再び梅鉢の方を一瞥し、軽く鼻を鳴らすと、また正面を向いた。

 これからどうしようかな。部屋にもどって本を読んでいたいけど、いま中へもどるの、いやだな…。
 環は園庭を見回した。本来は休日で行動は自由だった。だが、藩主夫人の慰問ということで、暗黙の了解でなるべく園庭に出て、藩主夫人と交流するように促されている。雨天の場合なども想定して、別段自室に戻って過ごしても構わなかったが、その場合は藩主夫人がさりげなく訪問することが慣例になっていた。
 環は園庭のへりを歩き始めた。そして隅の木立の下に設けられているベンチにたどり着くと、そっと座り、時間を潰すことにした。
 男子たちが追いかけっこをしている。ボールを持ち出して遊んでいるグループもある。女子は女子で縄跳びを持ち出して遊んでいる様子も見受けられる。そんな様子をぼんやり眺めていると、風景の中から二つの点が浮かび上がって、次第に大きくなって近づいてくる。人間の形になった小さい方の塊が、環に声をかけた。
「たまきちゃん!」
黒髪を振り分け髪に結んだ女の子が満面の笑みを向けた。環より年下で、小学校に上がるか上がらないかくらいのはずだ。水谷真理子。
「あそばないの?」
光を湛えた目をまっすぐ向けてくる。環の心の皺が一気に伸ばされた。
「うん、さっき並んで立ってて、ちょっとつかれた」
「じゃああたしもすーわろっと」
真理子は環の右隣にぴょこんと飛び上がって腰を落ち着けた。
 大きな方は無言で環の左隣に座った。首筋あたりで切り揃えた黒髪の短髪で、赤江環より背が高く、すらりとした体型のためにボーイッシュな雰囲気が漂う。赤江環と同い年くらいの荒木玲香。口数は少ないが、伏し目がちな切長の二重の瞳を眺めていると、何となく心が落ち着くために、環は玲香と一緒にいるのが好きだった。
「あんたもつかれたの?」
「うん」
玲香は前を向いたまま返事をした。環もそれっきり何も言わないが、その唇から緊張はなくなっていた。
「たまきちゃん、さっきのおばちゃんみたー?」
「みたよ。」
無邪気な真理子の突然の質問に、言葉が喉に詰まりそうになる。それを気取られないように、押し出した。足と、スカートの裾だけだけど、とは付け足さなかった。
「えりかちゃんは?」
「みたよ」
「あかいふくきてた」
「うん」
「うん」
「きれいだったよ。」
「うん。」
「そうだね。」
「あのおばちゃんだれー?」
「あのひとは、ええと…」
言葉に詰まった環の続きを引き取って、玲香が説明した。
「はんしゅさまのおくがたさまなんだって。」
「ふーん。おくがたさま」
「えらいひとなんだよ。」
「えらいひと?」
「そうだよ。」
「やさしい?」
年長の二人は即答できずに言い淀んだ。
「ええっと」
「たぶん」
「あたしはやさしいとおもうなー。だってにこってしてたもん。」
嬉しそうに言う真理子の顔を笑顔で見返して、その通りだと言おうとした環は、不意に左前方に視線を向けた。玲香が不審に思って環の視線を追う。遠くから黄土色の軍服が近づいてくる。
「わたし、ちょっとトイレにいってくる」
感情が抜け落ちた、平板な声。玲香が隣の赤毛の友達が座っているはずの方を向くと、環はもう椅子から立ち上がって園庭の真ん中を突っ切る方向に足を向けようとしていた。真理子を見ると、きょとんとしている。
「たまきちゃんがいくならわたしもー」
「だめ。まりちゃん、ちょっとまって」
「なんでー?」
「いいから。ちょっとここでまってよう。ね?」
真理子を制止しつつ、言葉にならない不安を感じながら、玲香は児童生徒が遊び回る園庭を突っ切ってゆく環の背中を見守った。
 大地をつかむ足の裏が砂を蹴る感触を伝えてくる。なぜもっと早く進まないのだろうかと、環はいらつく感情を太ももに力を込めるための燃料に変えて注ぐ。走り出したいが、それはまずいと理由がわからず思う。どこかでわかっているはずなのだか、余裕がないのと考えたくないのとで思考に蓋をする。後ろと左を振り返って見てみたい。だが、恐ろしくて見たくない。ただひたすら前に進むのを意識する。最初トイレに行こうと考えて、ついで寮母のところに行くほうがよいかと考えた。だが寮母がいてもあの若い男は無理やり近づいてくるかもしれない。やっぱり女子トイレに入ってしまえば追ってこないはず。環は心に決めた。右腿に力を入れて前に振り出そうとしたその瞬間。
「やあ」
黄土色が視界いっぱいに広がり、環は縮み上がった。危うく衝突しそうになって、かろうじて右足を思い切り前に出して突っ張った。急停止した。
 園庭の隅のベンチに座っていた玲香からは、まっすぐ遠ざかってゆく環の右から、黄土色の軍服が、急速に、だが滑らかに移動して近づいてゆくさまが見てとれた。玲香が息を呑む間に両者は接触したように見えた。
「気になっていたんだよ。さっき泣いていただろう?本当に大丈夫かい」
頭の上から降ってくる言葉と共に、黄土色の塊から二本の手が伸びてくる。ひどくゆっくり近づいてくるような気がして、これなら逃げられると思うのだが、環は動けなかった。もう、肩をつかまれる。だが、二本の手は急に環の前から消えた。

 園長室にも微かに子供たちの歓声が伝わってくる。年配の人の良さそうな女性園長との挨拶から始まって、彼女から夫人へ訪問への謝意、最近の園内の動向、子供たちの様子、困りごと、必要な援助など、夫人は園長との会談から、この施設の日々の営みを感じ取る。園長自身も軍役によって夫を亡くしていると聞いているので、他人事ではないのだろう。子供たちに親身に向き合っている様子が伝わってきて、夫人はありがたくも好もしい感じを抱いていた。園長は園長で、普段なかなか園の職員相手では相談のしようがない問題などを忌憚なく話せる場とて、つい話が長くなる。
「やはり、進路の問題がいつも頭をはなれませんで。あの子はどうしてやったものか、この子はどうしたものかと」
「そうですか…。ご苦労、いかばかりか」
言いかけて、夫人の動きが止まった。園長は自分への焦点が外された夫人の瞳を見て、何事か異変を察知する。夫人が静止から覚めて園庭の方を見た。僅かに険しい表情になっている夫人を見て、園長はつられるように園庭に目を向けた。
「失礼。少し席を外します。」
園長が夫人の声に目を戻すと、夫人は立って部屋のドアに向かっていた。
 園長室のドアが開くと、夫人が無言で出てきた。そのまま玄関のほうに向かおうとする。ドアの横に控えていた梅鉢と松田が続いた。梅鉢が夫人に声をかけた。
「岡本と三池を行かせます。お方様がお出にならずとも」
夫人は振り返って梅鉢に一旦きつい目を向けた。何も言わず前を向き、速度を上げた。
(岡本、三池。お方様が行かれる。若殿をお守りせよ。我らも行く。)

 目の前の光景。環が目にしている。黄土色の軍服を着た若い男が環の右前方に仰向けに倒れている。ずいぶん遠くに、小さくなったように見える。環の思考は混乱した。なに。なぜ。いったい何が起こった。私は、何を見ている。
「いってて。足が引っかかって」
おどけた陽気な声を聞いて右を向いた環の瞳に、うつ伏せに倒れた男子の背中が飛び込んできた。環の開いた口からは声が出ない。
(渋谷)
渋谷が起きあがろうと右手をついた。黄土色の軍服も両腕をついて上体を起き上がらせた。渋谷から黄土色の軍服に目を移した環は、恐怖で動けなかった。一度遠ざけられたものが、またやってくる。黄土色の軍服が膝をつく。渋谷の右手が園庭を掴んで強く握られる。黄土色の軍服の曲げられた膝が伸び始める。唐突に渋谷が右腕に力を込め、肘を伸ばす反動で、ばね仕掛けの人形のように左前方に跳び上がる。黄土色の軍服は立ち上がる寸前で顔面を庇うように右手をかざし、のけぞって尻餅をつく。渋谷が今度は環の左前方に倒れ込む。
「っとと。よろけちまって」
(砂…!)
かけたのだ。跳び上がりざまに掴んだ砂を勢いよく。環はそれを理解した瞬間、後頭部から側頭部にかけてすうっと冷気が走るのを感じた。それを合図に、渋谷に向けていた視線を外し、黄土色の軍服に目を向けた。座ったまま、目を拭っている。頭を左右に振る。と、勢いよく立ち上がり、次の行動に環は目を見張った。
 黄土色の軍服は、今度は環の方には向かわなかった。
 黄土色の軍服の履く茶色の長靴は、渋谷の腹部に直撃した。
 起き上がって次の体勢に移ろうとしていた渋谷は相手の反撃に衝撃を受けた。おどけの仮面の下に隠していたものが、緩んだ奥歯から漏れそうになる。腹部の衝撃が徐々に耐え難い苦痛に変わってゆくのがわかる。だが、ここで軟化するわけにはいかない。自分の後ろにいるものを思い出し、炎に炙られた蝋の板のように緩みそうになる気を引きとどめる。渋谷は強引に奥歯を噛み合わせ、喉の奥から漏れそうになるものを必死に抑え、滲みそうになる視界に黄土色の軍服を捉えなおした。
「ううお…」
前屈みになりながら、左手で腹部を押さえ、軍服の長靴を睨み付けた。渋谷は無意識に知っていた。喧嘩で相手の目を見ると、すくんで動けなくなる。それよりも、足元を見て相手がどちらに動くのか、さらに、相手の目を見ず、相手の体全体を見る。周辺視野を使うというのか、いわゆる「遠山の目付け」という方法だ。これによって相手の僅かな動きから、次の動作方向に反応できる。警戒してるな。飛び込んでやる。
 そこまで考えて、あとは頭の中の文字が消えた渋谷は、しかし、前方に飛ぶことはなく、左後ろから右横に突き飛ばされて、また園庭に倒れ込んだ。
 再び我に返った渋谷は、自分の上に誰かが覆いかぶさっていることに気がついた。園庭に押し付けられた右頬を上げて、首を空の方向に回す。青空を背景に、くせのある赤毛の長い髪が渋谷の額にかかった。赤江環だった。その顔は太陽の光を遮って翳り、それでもその顔の中の目はきつく閉じられているのが見える。うろたえながらも渋谷は驚きを跳ね除けるように怒鳴った。
「どけよ!」
「やめろ」
言いながら環がこじ開けるようにして自身の瞼を動かし始める。うっすら開いた隙間から、瞳がこちらを見つめているのを渋谷は見た。こんなに他人の息づかいが近いのは体験したことがない。自分の荒い息が赤江環の呼吸と突き合わさっている音を聴きながら、渋谷は環に許可を求めた。
「あいつを」
「もうやめろ!お前の立場が悪くなる」
環の言葉は、奥歯の間からすりつぶされたように、出てくる。渋谷には、そう聞こえた。歪む瞳を見るのが悲しくて、渋谷はもがき、なおも環に反抗した。
「だってあいつ!おまえを」
「みんなにも迷惑がかかる!」
こんどこそ、環は瞳を全開にして、押し殺した咆哮を渋谷に向けた。抜けるような青空に暗い顔。そのなかで怒りと悲しみに燃える二つの丸い球がこちらを見ている。その炎の閃光は一瞬だけ。あとはすぐ水に消されたようで、その後は水が滴り落ちそうになってきている。だが、その水滴が渋谷の顔に落ちることはなかった。突然、赤江環の顔が視界から消えると同時に、渋谷は右手首を強く握られ、上空へ引きずり上げられる感覚を味わう。
「こいつ!若殿に狼藉を働きおって!」
反対の左手首は素早く背中側に捻り上げられていた。蹴りを後ろの敵に入れようとしたが、腹が痛くて力が入らないのと、相手の巧みな膝の防御とで効果がない。黄土色の軍服が視界に入ってくる。拳を握っている。渋谷は観念した。目をきつくつぶる。衝撃に耐えるため、歯を食いしばる。
「やめなさい!」
暗闇の中で渋谷は女の声を聞いた。
「何をしているのですか!その子を離しなさい!」
「しかし、お方様、此奴は若殿に体当たりを」
「岡本!」
「は、はい」
急に手を拘束していた力がなくなり、渋谷は地面にへたり込んだ。ぼんやり目を開ける。その目を覗き込まれていると同時に、頬に柔らかい指が当たる感触で渋谷は目を見張った。
 いつか、どこかで見た、目。
 どこだったか、いつだったのか、渋谷が思い出す前に、目の前の女は指示を出す。
「松田。この子を医務室へ。急ぎなさい。」
ふわりと、渋谷の体は宙に浮く。
 ああ、そうだ、こんなかんじだったなあ。
 ずっと、ちいさなころ。
 だれが、やってくれたんだろう。ええと…
「陽次郎、お前は車に戻っていなさい。岡本、三池」
硬い声。渋谷はそこまでは聞いていた。
 渋谷が、大柄な警護官に抱き抱えられ建物のほうへ運ばれてゆく。その様子と同時に、淀みなく指示を出す夫人を、環は園庭に這いつくばったまま、呆然と見上げていた。  
 深く濃い紅の衣装に包まれた長身が聳え立つ。厳しい顔で、まるで軍隊の指揮官のように振る舞う。やさしいひとだなんて、まりちゃんのいうことは、あたっていないんじゃないのかな。でも、どこかで、見たことがある。一度、同じようにふるまうのを、見せてくれたことが、ふるまう人を、見たことが。それは、いつだったのか。
 紅い女の人がこちらを向く。男の人たちに向けていた、こわい表情は消えている。こっちに歩いてくる。立たなきゃ。
 夫人は、環が手をついて上体を起こそうとしているところに膝をつき、環の脇に腕を回して助け起こした。環の膝や腿や上体に付いた砂や土埃を払い落とす。それらが自身の衣服へ付着するのにも構わず、環の頬にまぶされた埃を丁寧に拭き取った。
 環は夫人の行動に内心驚いたが、顔の埃を拭われているあいだ閉じていた目を開けたとき、思わず少し首を引いた。夫人の泣きそうな表情が映ったからだ。環はなんと言って良いかわからず、夫人の顔を見つめたまま、目を逸らすこともできず、黙っていた。夫人も目を逸らさず、環の瞳をじっと見つめている。夫人の唇が小刻みに揺れ、何かを飲み込むように喉の辺りが上下した。やがて二、三度夫人が呼吸して、やっと静かなやわらかい言葉が出てきた。
「大丈夫?」
「はい」
環は音が抜け落ちそうになりながらも小声でそれだけ言った。溜めていた息を、音を立てないように吐く。
 夫人の顔にようやく安堵の色が少し戻った。口元に微笑が浮かぶ。数回軽く頷くと、両手で環の両肩を包んだ。
「赤江、環さん、ね。」
 なん、で、知ってるの。
 夫人は、目の前の少女の顔に、押し隠した驚愕と、猜疑と、恐怖がわずかに染み込んだ警戒とが混じった、かすかな色を見てとった。手のひらに止まった蝶が、ふっとすり抜けていってしまうかのような恐れを感じつつも、夫人はその瞳を覗き込むことに腹を決めた。
「すこしお話しをしたいのですが、よろしくて?」
すがるような、懇願するような、目。どうして。えらいひと、なんでしょう。どうして。でも、こわいひと、じゃない、みたい。まりちゃんの、いうこと、やっぱり、あたってた、みたい。
 環は、目の前の瞳から視線を心持ち下に外して、かすかに頷いて返事をした。今度は少し音を乗せて。
「はい」

四  邂逅
 

 夫人と環以外は、誰もいない大食堂。入り口には梅鉢と、渋谷を医務室に運んでから戻ってきた松田とが立って、人払いをしている。夫人が、そう望んで指示したからだ。
 がらんとしている。こんなに広かったのだ。白い長机の列と、それに収まる白い椅子の群れに周りを囲まれて、環は白々とした空気の中にいた。音が遠くて、静かだ。
 それにしても。
大食堂の中央あたりの机で、環は夫人と隣り合って座って、目を伏せたままだ。話したいことがあると言われて、ここに連れてこられた。だが、夫人は、一向に何も喋らない。環も、幾分ほぐれたというものの、緊張と警戒で、何も話せない。
 でも、と、環は思う。いっしょにいるの、いやじゃないな。
 なにもいわなくても、いいな。
 どれくらいたったのか。環はそっと夫人の方に目を向けてみた。夫人はずっとこちらを見ていたようで、環の視線を掬い取るように目を合わせる。
 赤江環が上目遣いに見つめてきたのを、夫人は認めた。なんと言っていいのか。言葉を探しあぐねていた。話したい言葉が沢山あるようで、出てこない。何を言っていいのか、よくないのか。でも、言葉なんて、いらないのでは。
「息子が、とんだご迷惑をかけて」
しかし、無数の言いたい、言葉にならない言葉の上にかぶさって、それらを差し置いて出てきたのは、向かい合っている相手にではなく、得体の知れない誰かの目を気にしての謝罪の言葉だった。
「ごめんなさい、怖い思いをさせてしまって」
環は夫人の瞳をじっと見つめた。このひと、なんだか、ちがうことを、いっている、ちがうことを、いいたいんじゃないのか、とおもう。なにを、いいたいんだろう。瞳が、揺れている。わたしは、なにを、いいたいんだろう。わたしは
「いいえ、おそれおおくもわかとのさまにごぶれいをはたらき、もうしわけ、ありませんでした」
夫人の瞳を見つめ続けた。そうじゃない、わたしは、そういいたいんじゃない、もっと、ぜんぜん、べつのこと。べつのこと、なんだ。だけど…。
 夫人は何か言いかけて、口をつぐむと、下を向いた。すると、何かに気がついたのか、首元に手を運んだ。指でつまむ。金に縁取られた、緑の石。
 環の見ている前で、夫人は自分の首の後ろに両手を回した。何をしているのか、環が訝っている間に、夫人は首元の金の鎖をほどき、そのまま両手を広げると、鎖の両端を持って環の首元に近づけようとした。環は驚いて少し後ろにのけぞった。
「これを、あなたに」
言いながら、環をこれ以上驚かせないようにと思ったのか、夫人は一旦手を下げた。
「そんな、いただけません」
赤江環は恐縮したのか、縮こまる。縮こまる?この子にそんなことをさせるためにここへ来たのではない。
 ああ、もういい。
 夫人は思い切った。
 不思議ね。鎖を外した拍子に、なにかの錠前も外れたのか、…それに、だれも聞いてはいないし。
「たまきちゃん」
夫人は固くなって下を向く環に呼びかけた。
「わたしね、あなたのお父さんに、とてもおせわになったの。」
 え?
「たまきちゃんが生まれるまえにね。わたしはあなたのお父さんのもとではたらいていたのよ。」
 えっ?…お父さんは、…陸軍の
 淡い記憶。おぼろげな形が浮かび上がり、像を結び始める。
「たまきちゃんと会うのは、はじめてだけど、会えてとてもうれしい。」
 おとうさんは、りくぐんの、…きかいむしゃぶたいの
 馬揃え。謂う所の、閲兵式。大きな、見上げるような、黒い塊。塊。背中に、旗指物が靡く、靡く。百足、九曜紋、下り駒に、一文字。きびしく叱咤する、掛け声、号令。勇壮な喚声が地鳴りのように湧き上がる。
 うおおおおおおおおおおおお…
「だから、これをあげたいの。」
 お父さんは、陸軍の機械武者部隊の、指揮官よ。
 しきかん?
 そうよ。見てごらん。
 私を抱きかかえるお母さんが指差す遥か先に、兜を脱いだ巨大な機械武者の頭部が開いて、お父さんが手を振っている。
 いつの間にか顔を上げていた環の瞳には、優しく微笑む夫人の顔が映っていた。金の鎖に下がった緑の石がその前にある。
「たまきちゃんの髪の色とよくにあう。とてもすてきよ。」
金の鎖が新しい持ち主の首まわりをゆっくりと包み込む。
「この石はね、エメラルド。持ち主に幸せと、幸運をもたらすという、いいつたえがあるのよ。たまきちゃん、わたしはね、あなたに、幸せになってほしい。そう思うの。」
「でも、わたしがこれをいただいたら、おかたさまが、おかたさまは」
「わたし?わたしはだいじょうぶよ。たまきちゃんがいるもの。たまきちゃんが、これをつけていてくれるもの。」
急に鼻の奥がつんと痛くなる。環は夫人の顔がぼやけたように感じた。
「やさしいのね。」
そう言って、夫人は環の瞳を改めて覗き込んだ。
「ねえ、たまきちゃん、もしも、もしもよ。」
夫人は一旦言葉を切って、続きを言おうか言うまいか、少し迷っているようだったが、思い切ったように言葉を継いだ。
「もしも、いつか、これと、似たものを着けたひとに出会ったら、なかよくしてくれると、うれしいな。」
 似たもの?
 唐突な夫人の願いに環は疑問の表情を投げかけたが、夫人はにこにこして何も答えない。やがて夫人は笑みを徐々に収め、環の瞳を見つめ直した。
「ほんとうは、わたしといっしょに来てほしいのだけれど」
 夫人はそこで言葉を切って、しばし沈黙した。
「むしろ、あなたをくるしめてしまうかもしれない。だから、それはおねがいできないわ。」
言って夫人は環を抱き寄せた。どれくらいそうしていたろう。それが、別れの挨拶だった。
 

五  緑の石

 左手のドアが開いた。その音に少年が気づいて視線を向けると、警護官に伴われて、慰問から戻ってきた夫人が車に乗り込できた。夫人の目が少年を見た。少年は視線を外した。そのまま右前方の仕切りや窓の辺りを見るともなく見続ける。夫人からは何も言葉はなく、しばらくして車が始動し、窓の景色が動き始めた。
 帰りの車内。
 少年は憮然として一言も喋らない。
 沈黙が支配する。
 細い道を左右に進み揺れる車の中で、窓外の景色に目をやる少年を、夫人は見つめていた。
 車列は清水橋を渡り、城へ戻る街道へ出た。車体の揺れが収まると、夫人は抑えていた思いを口にのぼらせた。
「何故、あのようなことをしたのです」
「あのようなこととは」
少年は待ち構えていたのか、即座に返答した。挑戦的な顔が夫人に向き合う。
「男の子に乱暴を働いたでしょう」
「あれは向こうから仕掛けてきたのです。それで…、まあ…。僕も大人げなかったとは思いますが」
「何の理由もなく向かってはこないでしょう。一体何があったのです」
少し目を伏せて表情が翳った少年に、声を抑えて夫人は問いただした。
「さあ、僕にはあの子の考えはわかりません」
「はっきりおっしゃい。あの子が向かってくる前に何があったのですか」
婦人は厳しい目で少年を見つめた。少年は夫人から目を逸らし、ややあって観念したように話しだした。
「対面挨拶の時、泣いていた女の子がいたので、その後大丈夫か様子を見ようとしただけですよ。それがなにか」
夫人はそれを聞き、少年の不機嫌そうな横顔を見つめると、どう言っていいものか、言葉に窮した。それでも、少年の心に届けようと、言葉を絞り出した。
「とにかく、暴力はいけません。怒りが現れたならば、それを認識しなさい。そのまま何も行動に移さず、呼吸を観察するのです。怒りがおさまってゆくのを観察なさい。それから、己が働きかけようとする相手の様子を、よく見るのです。己が良かれと思って行動しても、相手もそう思っているとは限らないこともあるのですよ。」
夫人は、何も答えない少年の、再び憮然となった横顔をしばらく見つめると、音もなく息をついて前を向いた。
 小言が終わったのか。少年はふと夫人を見た。と、その首元に緑のペンダントがない。その事実に、横を向いて不快そうに鼻の横に皺を作った。が、しばらくして片頬にのみ笑みをひねり、車窓の外に目をやった。

 夫人の一行が帰った後。双善園の大食堂では、独り残った環が、譲られたペンダントを首から外し、掌に乗せて見ていた。深く澄んだ緑色。心の中の重荷をその中に吸い取ってくれるような気がして、環はいくらか胸が軽くなったように思えた。
 六角柱状の緑の石は、金の枠に縁取られている。上部の枠だけが幅二ミリメートルほど、他の全ての辺は幅一ミリメートルほどの細い枠で囲われている。そして、全ての面が薄い透明なガラスに覆われている。細い金の枠は、その薄いサファイアガラスの窓枠でもあるのだ。だから、緑の石は、直接外部に露出することなく、精巧なサンルームの中にぴったり収まっている格好になる。上部の枠の六角形の対角に、ちょうど手桶のように回転可能な基部を持つ“つる”を備えている。各基部から発したほぼ直線の金の線は、中央で合わさって二等辺三角形状のつるとなり、楕円形の金の輪を介して金の鎖に吊るされる。そのつるの基部だが、赤江環は左右で形が違うことに気が付いた。一方は単純に回転の軸なのだが、他方はそれに加え、その外側が時計の竜頭のような形になっている。興味を覚えた環は、試しにその竜頭らしきものを親指と人差し指で摘んで回そうと試みた。壊れてしまいはしないかと内心怖かったが、少し力を加えると、竜頭は回り始めた。慎重に回転させ続けると、竜頭の下にねじが切られた筒が少しずつ現れた。それに伴い竜頭も基部から徐々に外側に離れてゆく。しばらくすると竜頭に覆われて隠れていたねじ筒が完全に現れ、竜頭は空回りし、それ以上外側へ移動しなくなった。
「あ」
竜頭から指を離し、鎖をつまんだ時、つるにつながった上部の他より太い枠が上に外れたのだ。少し上に持ち上がり、後ろに蝶番があるのか、回転して完全に開放された。太い枠にはねじ筒が、本体の方には軸に装着された竜頭が残っている。ねじ筒の下を見ると、竜頭の軸が通り抜けられるように、切り欠きがある。金の枠の精緻な作りに感心しつつ、開放された中を覗くと、そこにはサファイアガラスを介さない緑の石が、顔を覗かせていた。
 環は左手を出し、その掌の上で、右の人差し指と親指でつまんだ金の枠を逆さにしてみた。緑の石が音もなく、ころがり出た。
 深く澄んだ、五月の森の緑を閉じ込めたような、濃い色。角度を変えると、光を反射して、波のない水面のように、表面にはっきりと照りが現れた。
「捨てっちまったほうがいいんじゃねえのか、そんなもん」
渋谷拓郎だった。どきりとした。緑の石に見入っていて、後ろに人が来た気配に気づかなかったのだ。
「大丈夫なの?」
振り返った環は、渋谷が医務室に運ばれた経緯を思って尋ねた。
「どうってことねえや、あんなへなちょこの蹴りなんてよ。大袈裟にこんなもん貼りやがって」
そう言って渋谷はいきなりシャツの前面を自分の顔が隠れるくらい上にはだけた。腹に大判の湿布が、でかでかと貼り付けてある。環は急いで目を逸らして、無神経な相手に内心悪態をつきながらも大事には至らなかったことに安堵した。
「そう…。でも、なんで」
「ああ?」
シャツを下ろして渋谷の顔が現れる。
「これを捨てちゃえなんていうの?」
「あー、そうきたか。やっぱ女はそういうの好きだかんなー。金目のもんみたいだし。でも、おれが気になんのは、ただほど高いものはねえっ、てことになりゃしねえかなー、ってな。」
環は答えなかった。ただ、渋谷の顔をじっと見つめている。
「つまりさ…、面倒を背負(しょ)い込むことになるんじゃねえか、ってことよ。それを持ってることで、あんなやつらとまた関わりあいになるかもしれねえんだぜ。」
「渋谷」
「なんだよ」
「ありがとう、気にかけてくれて」
こんどは、渋谷が答えない。困ったような変な顔をして、目をあさっての方に泳がせている。そんな渋谷を見つめて、環は珍しく口元にすこし笑みを浮かべた。手にした緑の石を、そっと元の居場所に戻し、蓋をして竜頭を締め直した。
「たしかにあんたの言う通りかも。でも、本当はどうなるのか、わからない。だから…、実験してみる。」
「へっ?実験?」
虚をつかれたような顔を向ける渋谷を前に、環は左の掌に溜まった金の鎖を右手の指でつまんでゆっくりと引き上げ、それに吊られた緑の石を見せた。
「これを持ち続けて、面倒を背負い込むか、それとも、幸運をもたらすか。」
「あー…なるほど…。へーえ、こいつぁ、おもしれえ!」
渋谷の顔に、不敵な笑みが戻る。いつもの顔に戻ったことを確認した環は、しかしその笑みが少し伝染したことを、渋谷に確認されていることには気づいていない。
「さあて、そうと決まりゃあ、まずやることはひとつだ。」
「え?なに?」
「腹ごしらえよ!決まってんだろ?腹が減っては戦はできぬっ、て言うじゃねえか。今日の昼飯はなんだろ」
「あんたの考えることは食べることばっかりじゃないの」
環はあきれて席を立った。昼食までは、まだ時間があるのだ。
「そんなこたぁねえよ!おれはいろいろ考えてんだぜ!」
言いはってみたところで図星だ。それを、なんとか言い負かそうと色々と頭をめぐらせながら、渋谷は慌てて立ち上がった。そうして風に靡く赤毛の背中を追いかける。
 二人のいなくなった食堂は、またしばしの静穏を取り戻した。

 


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