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紫式部はなぜ源氏物語を書いたのか

「えっ?」
「その、先生はどうして源氏物語を書いたのですか?」
「そうねえ」
紫式部は持っていた筆を止めてしばし考え込んだ。
「まあ、色々あるけど、やっぱり、旦那さんが死んじゃったからかな。」
「え」
飲み込めない弟子が紫式部を覗き込む。
「ん、まあ、話せば長くなるけどね。私のひいお爺さん、結構偉い人だったんよ。学者肌でね。で、だいぶ羽ぶりが良くて、要するにお金持ちだったわけ。でもね、おじいちゃんの代で、その、んふふ、落ち目っていうか、まあ、お金なくなってきちゃったわけね。その後お父さん頑張ったんだけど、やっぱり貧乏でねえ、うち。だーから、ほら、ないわけよ、いいはなしっていうか、縁談?だってそうでしょう、ふつう、そんな貧乏なうちの女なんか女房にしたって、メリットないじゃない。でもね、きたのよ、いい話が。わたし、うれしかったもん。だいすきだったのよ、旦那さん。優しくて、いい男で。娘もできてすんごく幸せだった。」
にこにこした師匠の顔を見ていると、こっちまで嬉しくなってくる。
「だけど、死んじゃった」
一瞬で色が消えた紫式部の顔を見て、弟子は喉を押さえつけられたような気分になる。
「結婚して、二年とちょっとで、病気で、ね。」
みるみるうちに泣き崩れそうな様相を見せる目の前の女に、弟子は同情と狼狽とで、師匠より前に目に涙を溜めた。
「いいのよ、もう過ぎたことだもの。大丈夫よ。だけどね、わたし、だいすきだったの、ほんとに。だから、泣いて泣いて、泣き明かしたわ。生きていちゃ、いられない、死のうかとも思ったもの。なんども。だから、しばらくずっと、なんにもせずに、ぼーっとしてたわ。ほんとに、なんにもできなかった。でも、娘もいるし、ずーっとぐだぐだしてはいられないじゃない?」
弟子は、唇を軽くへの字にして斜め下を見つめる紫式部の顔を見る。
「それでね、友達の集まりに出掛けて行ったの。そこで物語の好きな友達が集まって、色々読んだり、それについてだべったりするのよ。なんていうの、今で言う文学サークルっていうの?そんなかんじ。わたしね、自慢じゃないけど、小さい頃からけっこう頭よかったのよ。兄貴より先に漢文の教科書すらすら暗記して読んでたくらいだからね。お父さんもインテリだったから、うちにたくさん本があったのよ。それで物語を読むのがとーっても好きだったわけ。本を読んでる間は嫌なことや辛いことは忘れられるしね。で、集まりで色々読むわけ。そのうちに、自分でも書いてみようかと思ったのよ。」
「それが源氏物語だったのですね。」
「そうよ。そのとおり。」
ビンゴとばかりに、弟子は紫式部の人差し指の先に、師匠の顔がぱっと明るく輝いたのを見てとった。

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