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人を育てる、と、人材を育成する、の違い

「育成しなかったでしょ」

と、数年前、同僚に言われたことがある。部下に対して、自分なりには育てていたつもりだがどうやらその同僚からするとそれは「育成にあらず」であったようだ。

たしかに私もまだまだ未熟で、人を育てる方法論やわきまえるべき振る舞いなどができていない。今もトライ&エラーの連続である。たとえば、

・全ての人に同じやり方で対応しようとしてもうまく行かない。
・自分でやったほうが早い、から、いかに早く卒業するか。生み出すプロセスにいかに巻き込んでいくか。
・そのためには目的や目標の「所有感」をもってもらう必要がある。且つ、わくわくするような「目的」を生み出す必要がある。
・また、採用の時点から関与し、誰に何をどこまで担ってもらうのか、の全体プランが必要だ。

などなど。。とても当たり前の基本ばかりかもしれませんが、マネジメントとして今も日々変化させています。

たしかに、「育成してなかったでしょ」の一言にギクッとした。自分はチームを持つ経験がその同僚より多いわけじゃなかったし、なんだかよくわからないけれど自分は非力なんだろうとも思っていた。人を人情で巻き込んでいくいわゆる体育会系のやり方がその会社では主流だったが自分は苦手で、それをヤラれたときも、半分快適、半分不快、だった("贈与"とはそもそもそうした性質を兼ね備えているのかもしれない、と最近は感じてきた。これに関してはまた後日)。とはいえ、もっとやり方があったように思う。

でも、ギクッと感じると同時に、何か「怒り」のようなものも微かにこみ上げてきた気がするのである。それが何だったのか、数年後の今、ふと気づいたので、忘れないうちに書き留めようと思う。気づいたのは、こういうことだ。

「使いやすいように加工しなかったでしょ」

あのときの「育成しなかったでしょ」には、「あいつを使いやすいように加工しなかったでしょ?」という支配側、もしくはその支配に隷属する側の「面倒な仕事を増やすんじゃねえ」というニュアンスが含まれていた気がするのである。

たしかにそれも、ごもっともだ。

その人、そのメンバーの本来の姿よりも先に、「顧客(顧客群)の今のニーズ」が決まっている。
さらに、それを満たすための「顧客と提供者である自社が、互いに承認した(あるいは慣習的に決まっている)プロセス」も、先に決まっている。
従業員であれば、そのプロセスに沿って自分の形を調整しないことには、話がうまく通らない。無形であればさらにその「認識のズレ」が起こってしまう。
それを含めて顧客満足、あるいは感動を与える仕事をしていきたい。そうなったときに、安定した仕事をするためには、プロセスにまずは乗せてあげたほうが、結果として良い結果となる可能性が高いのかもしれない。守破離だ。かつ、企業にとっては、効率が良く収益の上げやすい育成方法だ。


なんだけど。。会社を離れた「個人」としては、何かそこに抗しがたく「No」を突きつけたくなるのである。言われたこと、正しいな、って感じますしそうなんだろうな、と思うのですが、、

「支配されている」という自覚がちゃんとあればいいのですが、それを自覚しているのだろうか。ともすると、そうだとは気づかずに生きて、後々、「わしの頃はこうだった」とか「そのやり方はこうだ」など、個人として本気で言ってしまうようになってしまわないだろうか。言葉の自動機械?そんなのは少なくとも自分はゴメンだ。そして、自分が「育成」に関わる人に対しては、そうなってほしくない。これは私の価値観だ。

もちろんこれは、めんどくさい。先程のとおり、まったくもって効率が悪い。そうでなくても「自分はこうだった」「こんなことがあって今こうしている」などは語らざるを得ない場面もあるし、そうしたほうがいいという場面もある。当然だが数字という結果も残す必要がある。

また、もちろん自分もただの人であり、周囲の影響に反応して生きてしまっている。この科学的な事実も謙虚に受け入れ続けたい。でもその刺激と反応の循環の中には、科学はあれど意味は見つからない。やはり自分の人生の意味や価値は、自らの価値観にそって決めたいものである。

「外側に意味を求める姿勢」からの離脱

人類は500年、もしかしたらそれ以上、その「外側に求める姿勢」に苦しめられてきたように思う。かつてはわかりやすく「宗教」や「掟」が理屈なく矛盾を内包しながら存在した。やがて科学が台頭し、「おれたち、もしかしたら、なんでもできるかもしれないな」と誰もが思い始め、支配者層が地球全体を闊歩してきた。人類全体が「社会的自己肯定感」を頼って進んできた。儲かることは良いことだ。たくさん稼いで、気持ちよく人生を過ごそう、それが幸せ。あるいは、それが過ぎて、「稼ぐのではなくオンリーワンだ」「SDGsを大事にしようよ」などの標語である。今もなお、そうした「外側に何かを求める図式」が社会を覆っているように感じる。だから延々と「不安」が続き、宗教や掟、その次は科学や経済、法律、その先は人権や環境保護など、「外側」に答えを見つけようと躍起になってきた。

「外側」を表現するコンテンツは時代や社会によって移り変わり、だけどその構図は変わらないのである。

別に構図そのものが悪いわけではない。というか、そうしたことが言葉によって可能になったおかげで、人類はここまで繁栄してきた。神話を共有し、争わずに一体となることで、他の生物を凌駕する「圧倒的な総量」を獲得したのだ。

これまではフィジカルにより、その触れうる社会が限られてきたのである。だから先のような事例も、「この会社で良くなっていくため」には、問答無用でインストールしてきた。

しかしインターネットがある今、そういった構図を、変えることができうるのではないか。少なくとも変えうるキッカケを与えることができるのではないか。もちろん偶然による出会いは大切にしながら、いろんな反動も内包しながら、だけれど、自分の価値観にそって生きうる素地が整いつつあると感じている。日和見を推奨したいわけではない。自分の価値観を大切にするからこそ、一人ひとりが同時に、全体主義ではない形で「公」を考えたほうが良いのではないかと感じている。

だから「人材育成」も、「自社の利益に還元されること」のみをもって行うことは、やりたくないのだ。もちろんそれをクリアしていくことは必要だ、ということは百も承知で、その先を目指したい。自然な帰結として、会社との距離を選べる形にもっていきたくなる。


まとまりのない散文ですが、今日はこのへんで。ふとした気付きを書き留めたい一心であったが、自分がストレートに語ることのできない「主張」めいたものに自然とつながったような気がする。

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