オリジナル掌編小説『少しだけ』

 あれ、なんでこんなことになっているんだっけ。僕は燃え盛る炎の中で、そんな間抜けなことを思っていた。

 たぶん人が死のうと思うのは、ほんのちょっと魔が差すみたいなものなのだと思う。駅での飛び込み自殺って電車は止まるし残された家族に多額の損害賠償請求がされるわけだし、なんでそんな迷惑なことできるのだろうと思っていたけれど、その答えが今、なんとなく分かった気がした。たぶん彼らの多くも、「よし、死ににいくぞ」と決意を固めて駅に向かうわけではなく、いつも通り会社や学校なんかに向かう途中、ふと「今日はコーヒーじゃなくてカフェオレにしよう」というのと同じように「死のう」と思ってしまうのだろう。
 今日だって別にいつも通りの日々だった。いつも通り最低賃金で楽しくもない仕事をして、客や先輩に悪態を突かれ、それでも数千円がもらえるのだからととりあえずすいませんと謝って、帰りにスーパーで半額になった惣菜を買って、冷凍してあった白米と一緒に喉に流し込み、風呂に入ってからなんとなくネットを眺めて、明日もまたバイトだからと日付が変わる頃に眠る。ほんの数ミリ、何かがずれていたらきっとそのまま明日になっていたんだと思う。でも今日は気づけば家にあったガスストーブ用の灯油を床に撒いて、机に置いてあったライターで火をつけていた。自分が灯油を浴びなかったのはなぜだろう。強く死にたいと願ったわけでもなかったし、ちょっと炎を眺めてみたかっただけなのかもしれない。自分でもよくわからなかったけれど、とりあえず今、僕は炎に囲まれているのだった。

 炎は少しずつ、輪を縮める。今にも溶けてしまいそうなくらいに、熱い。

 炎に囲まれて、死を目前にしても残念ながら走馬灯は現れなかった。まあ、そりゃあそうだよな、と思う。僕の人生、振り返るようなこともないか。自分でそれっぽく思い出を引っ張り出してみようと思ったけれど大したものは出てこなかったし。友達というほどの仲でもない人間の輪の端っこで面白くもないけどとりあえずみんなに合わせてリアクションする光景。両親に何か言われればとりあえず分かったと言って物分かりよく振る舞う光景。ああ、しょうもないなぁなんて可笑しくなって一人でふふっと笑ってしまった。そういえば笑ったのなんて久しぶりだな。

 炎はすぐそこ。だんだんと熱さで意識が飛びそうになる。

 この火事、明日ニュースになるかな、なんて目の前の炎の輝きを眺めながらふと思った。人ひとり死ぬ程度の火事じゃよくて地方のニュース番組や新聞ぐらいかな。警察や消防が来るんだろうな。そうして黒焦げの僕の身元が確認される。灯油の撒かれた跡を見つけて、事件性があるかもしれないと少しぐらい考えて、結局はただの自殺だっていう結論に達するのかな。お隣さんは僕の名前を少しくらい記憶に留めることになるだろうか、僕は覚えていないけれど。僕のせいで引っ越しを余儀なくされたとか、家具の買い替えをしなくてはならなくなったとか、いろいろと腹が立つだろうな、僕が人身事故に腹を立てていたのと同じように。でももしかしたら、彼も孤独で寂しかったのかもしれない、顔を合わせた時に挨拶くらいしてやればよかった、なんて少しくらい思ってくれるかもしれない。別に孤独感から自殺したわけでもないからあまりにも余計なお世話だし、挨拶をされたところで僕は返さなかっただろうから何も変わらないのだけど。

 炎は、どんどん勢いを増していた。
 僕はその輝きを、とても尊いもののように感じた。
 僕の人生が、輝いて見えた。


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