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ギャップ

先日草野球で久しぶりに活躍出来た。
そこに至るまで色々な人に意見を求めて、色々な人が親身になって教えてくださった。

打球が飛んだ時、自分では現実味を感じられなかった。
なのに、周りは喜んでくれている。
このギャップは以前から多い。

「現実味がない」最近よく口にしてしまう言葉だ。
「嬉しかった」や「楽しかった」はずなのに。
評価を他人に任せてしまっているのかもしれない。

思考や経験が自分の目に映る景色を作ってしまっている。

「おたつさんって練習でも試合でもよく名前呼ばれて、愛されてますよね」と草野球の体験に来た人に言われた。
「人当たりよさそうですね」と研修で隣になったガラの悪そうなお兄さんに言われた。

どれに対しても「いやいやいやいや!絶対そんなことないって!」と心の中で全否定した。
一方、それをここに書くのは自己承認欲求と言われても仕方ない。
ただ本当にその評価と自分の感覚にギャップがある。自意識はいつまでも学生時代の無愛想な、誰にも見てもらえていない自分だからなのだろうか?


過去の自分に囚われすぎているのか、認めたらよくないことが起きるような気がするのか。
受け入れる前に、別のできていないところを探したりもする。

「自分にそんな価値はない」
「自分は何者でもない」
という心の反応。

裏を返せば

「自分にはそんな評価をされるだけの価値がある」
「自分は何者かになりたい」
心のどこかでそう思いたいのかもしれない。

でも、その価値観はやっぱり自分には合わない気がする。

自分が何かいい結果を出せた時に周りに喜んでもらえるのは、ネガティヴな性格でも前に進もうとする意思があるからかもしれない。
おそらく"自分の価値"や"何者かである自分"を評価されている訳ではない。
もっと努力してる人はたくさんいる。自分の努力が生んだ結果とは到底思えない。
"ひたむき"と言えるほど自分の人生と向き合うことも出来ていない。

全て"現実"として受け入れて、"何者"になれなくても人に寄り添えるよう行動する。

価値があるとかないとかではなく、自分に出せるものを表現する。

前に進めているかはわからないけど、最近は学ぶことが多い。
ギャップを少しでも埋められるように
現実を現実として受け入れられるように
自分に願う。

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