篠房氏の「アリスとテレスのまぼろし工場」の感想に対する雑感

篠房六郎氏がアリスとテレスのまぼろし工場のAとB(ネタばれ回避で匿名にしています)の関係を育児ネグレクトと評しているのを見ました

ですが、そもそもBはAの娘ではなく、育児する義理はないわけです。
それでもAはBの衣食住の世話をして、入浴の介助を行い、手編みのセーターを贈るなどしており、むしろネグレクトできていない描写の方が多かったと記憶しています。

AがBに依存しないようになるべく接触を避けていた描写は「精神的ネグレクト」と解釈できるかもしれませんが、実際にはなるべく避けようとしているのに何かと関わってしまい、工場から出た後はべったりと付きっ切りで全く避けることができていませんでした

AがBを完全に無視しきれていたなら、篠房氏の指摘も妥当だと思いますが、実際はその逆だと私は考えています。
彼女らの関係は育児ネグレクトと言うより、精神的共依存に近いものがあります。
ですからクライマックスの場面は、共依存からの脱却という側面がありました。だから、あの突き放した言い方だったわけです。

篠房氏は、あの2人の関係を育児ネグレクトだと思い込んでいたから、あの2人の関係性の変化を物語から読み解くことができず、クライマックスの場面の爆発的な告白を「育児ネグレクト」という思い込みのフィルターを介して見てしまったのだと思います

一度何かの拍子に嫌悪感などの感情を抱いてしまうと、冷静な分析や評価ができなくなるのはよくあることです

篠房氏は、岡田麿里脚本を育児ネグレクトの視点で読み解けるかもしれないと言っていましたが、その視点で解釈しても得るところはないと思いました。
氏はギクシャクした親子関係と育児ネグレクトを混同しています