清水俊史氏の学説をめぐる仏教学の論争を見て思ったこと

先日、仏教学の世界で清水俊史氏の学説をめぐって論争が起きていることを知りました。

私の属する理系の分野においては、ある人物が今までの学説を覆す理論を提唱し、アカデミアの人々から猛批判を受けている場合、九割九分九厘その人物は単なるトンデモさんでしかありません。

この手のトンデモさんは「頭の固い学者は私の理論を封殺しようとしている」と主張して、旧弊なアカデミアの無理解と横暴を批難します。
しかし、実際には単に立証責任を放棄して、無根拠に自説の正しさを盲信しているだけで、そのことを学者に批判されているだけだったりします。

最近では、「土偶を読む」の著者がまさに上記に当てはまるトンデモさんで、自説を証明する十分な根拠を示さずにアカデミアを批判していました。
「土偶を読むを読む」において、その誤りが徹底的に批判されたりしていました。

一方、文系分野では、アカデミアの通説に異論を唱える人物を徹底的に潰そうとする事例を実際に聞きます。
例えば、池内恵氏はイスラム原理主義運動について現実的な分析をしたところ、それを西洋資本主義に代わる理想社会を実現する運動とみなしていたアカデミアから激しい弾圧を受けました。

また、思想的に気に入らない人物や悪人認定した人物を標的に署名活動したり、出版社などに圧力をかけて追放を求めるキャンセルカルチャー運動も盛んです。
呉座勇一氏に対する署名運動、一部のフェミニストの怒りを買った哲学者の論文を掲載しないようにした事例、LGBT批判した本の出版を中止させた抗議などがそれです。

学問的に正しいかどうかが論点にならず、「道徳的に素晴らしいかどうか」という主観だけで判断される恐ろしい世界です。
更に恐ろしいことに、この手のことをする人々は「悪い人間を懲らしめることの何が悪いの?私を批判するあなたも悪人に違いない」と本気で思っています。

今回の論争の主役である氏が被害妄想と誇大妄想に憑りつかれたトンデモさんなのか、閉鎖的なアカデミアに正論をぶつけて弾圧される新進気鋭の学者なのか、今の私には分かりません。
ただ、清水俊史氏の言説の1つには深く同意できました。

つまり「現代において正しいとされる概念」をブッダも唱えていたと主張するような「己の思想をブッダという権威に語らせている」だけの学者がいるわけです。

これと同じ批判は呉智英氏もしていました。
仏教学者が「人権は仏教においても大事されていた」と語るのを聞いて、呉氏は、現代的な価値観と異なる文化背景を持つ仏教の教義には人権とは相容れない主張も多いのに、宗教者が現代の価値観におもねって教義の歪んだ解釈をしていると批判しました。

おそらく、この手の仏教学者はその時代の価値観がどんなものであっても、同じようなことをいうのでしょう。
仮に世界が北斗の拳のような世紀末になったら「強者が弱者を皆殺しにするのは当然の権利ですが、実は仏教においても同じことが唱えられているのです」とか言うに違いありません。

もしも、現在の仏教学が「差別に反対する仏教」とか「男女平等を推奨する仏教」のようなキャンセルカルチャーを受けない正しい仏教の解釈を目指しているのならば、清水氏の仏教学への批判と氏の提唱する学説は拝聴に値するものであると期待できます

私は現在、清水俊史氏の「ブッダという男」を読んでいますが、専門的知識のない私には氏の主張の真贋を判定する能力はありません。
ですが、氏が学者として正しい研究姿勢を取っているかどうかは判定できるはずなので、そういう点にも注目して読み進めたいと思います。

なお、ネットにおいて清水氏を批判する意見も多くありましたが、それらの批判者は、何というか自民党を常に罵倒しているタイプの人が多いと思いました。

そうなる理由は何となく推測できます。
清水氏が批判するのは、仏教を通して男女平等や人権思想を素晴らしいと称賛する学者です。
そのような学者には自民党嫌いなリベラル派の支持者が多いので、清水氏へ反論する人が自民党の批判もしているのは自然な成り行きとなります。

もちろん自民党を批判するからダメということではありません。私も自民党の政策の多くを猛烈に批判していますし、そもそも政治批判と清水氏への批判は無関係なことです。

私が気になったのは、彼らは自民党が良い事をしても決して認めないところです。
安倍氏の金融緩和は多くの人々を救いました。菅氏がコロナワクチンを大量に確保したことで大勢の命が救われました。岸田氏の能登大震災への対応は十分に迅速でありました。
そのように自民党が良いことをしていても、彼らは決してそれらを認めることなく、自民党が1つも良いことをしていないように罵倒し続けています。

つまり、彼らは「自分が嫌いな人間は正しいことを言ったり、したりするわけがない」と考える人であるということです。
そんな人達の清水氏への批判は、「道徳的ではない」と判定した人間を糾弾するキャンセルカルチャーと同レベルのもので、聞くに値しないのではないかと私は思ってしまいます。