感想:土偶を読むを読む:専門家としての責任を果たした力作

本書は、「土偶を読む」という本の問題点を指摘した本であると同時に、最新の縄文研究を分かりやすく紹介した本です。
研究事例の紹介が豊富なので、土偶を読むの批判書としてではなく、普通に縄時代を知る為に読んで楽しむことができます

それにしても、これだけ完璧に批判されれば、「土偶を読む」を信じている人もそのおかしさに気がつくかと思いきや、「この本は、竹倉氏の説が間違っていることを証明できていない」と反論しているのを、ネットや書評などで散見しました

彼らは重大な勘違いをしていると私は思います。
この本は、「竹倉氏の説が間違っていることを証明する」本なのではなく、「竹倉氏は自分の説を正しいと証明できていないことを指摘する」本なのです。

一般的に、ある仮説を間違っていると証明することは非常に困難です。
いわゆる、悪魔の証明というやつです。

実際には、仮説の立証責任は竹倉氏にあり、私達が竹倉氏の説が間違っていることを証明してあげる必要はありません。
ただ、竹倉氏が自分の説を正しいと証明できていないことを指摘すればいいだけなのです

例えば、カックウが栗の精霊であるという仮説は、カックウの頭部の欠損や類似した土偶の形状を説明できていません。
また、縄文時代前期を通して栗は広く存在していたのに、どうしてカックウだけが栗を模しているのかも説明できていません。
これらの指摘は、竹倉氏の説が間違っていることの証明にはなりませんが、竹倉氏の説を正しいとする根拠が不足していることを明らかにしています

仮説の立証責任を仮説の提唱者に求めることは学問の世界では当然のことですが、研究の流儀に疎い一般の人には「アカデミアは竹倉氏の説が間違っていると証明できず、ごにょごにょと訳の分からないことを言っている」と見えるようです。
アカデミアに認められない「独創的」な人物を英雄視するマスコミの困った癖も、この傾向に拍車をかけています

本物の学者による真摯でまっとうな科学的手続きを踏んだ本書は、多くの人に正しい縄文時代の知識を与え、「土偶を読む」の欠点を知らしめるでしょうが、残念なことに、科学に縁遠い人には響かないかもしれません