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映画における大きな嘘と小さな嘘

前に何かの本で読んだお話。
映像作品などのフィクションに関して、観客は「大きな嘘は創作として受け入れられるが、小さな嘘には目くじらを立てる」そうなのです。

たとえば、大きな嘘として、挙げるなら
”ゴジラが東京タワーを壊す”
これに関して、「事実と違うじゃないか」と怒る人はいないと思うんですよね。
(映画の中で地元のアイコン的建物が壊されると、むしろ喜ぶ人が多いような)

でも、小さな嘘、例えば
"昭和初期の設定で、主人公が携帯電話を持っている"
っていうのは、割と「おかしい。時代考証がきちんと考えられていないんじゃないか」って言う人が多いような気がするのです。

(大前提として)どっちも創作なのに、です。

この理論を初めて見た時から、たしかにそうだよな、と思ってはいたものの、なぜこうなるのかわからなかったのですが、最近になって、これはギャップの大きさの違いなのかな、と考えています。

自分の認識(ゴジラに東京タワーは壊されていない)と創作の狙い(ゴジラが東京タワーを壊す)の間には明らかに大きなギャップが存在します。

自分の事実認識の中では
1.ゴジラも存在しない
2.東京タワーは破壊されていない
2つも間違いが発見できます。
というか、現実に起こりえないことです。

でも、(昭和初期に携帯が存在しない)と(存在する)は割と曖昧です。
この(昭和初期)が(平成初期)に変わると、ありえちゃうからなのでしょうか。
ギャップは比較的小さめですよね。

この、認識と創作の間のギャップが、ある一定以上広がると、観客はそれを創作として議論なく受け入れられるのでしょうね。


そして、この小さなギャップが映画にとっては致命傷だと思うのです。

いち観客として映画を見ていると、小さなギャップがもたらすひっかかりは、映画が終わった後まで大きな違和感を残してしまいます。
どれだけストーリーが良くて、どれだけ演技が良くても、違和感は映画の世界から観客を引っ張り出してしまうのです。
シーンが変わっても、前のシーンの些細なことが気になって話が入ってこないこと、ありませんか?
私は結構な頻度であります。

映画を作る際には、大きなギャップを目指さなくてもいいけれど、小さなギャップはできるだけ潰した方が良い。
作品の世界観を作り上げ、その世界に観客を誘うのが、作り手としてやらなければならないことの一番の基礎だからです。


#毎日note #映画 #映画の作り方

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