スーツを着ることの後ろめたさ

某大学院試験を受けた時、多分募集要項には服装の指定はなかったのでスーツを着なかった。試験を受ける前に一応 ( 院試 服装 )と検索してみてスーツを着る人が多いことは予想していたけど、結果的に試験会場でスーツを着ていなかったのは僕と他留学生の数名だけで、少し面食らってしまった。

東京までスーツを持っていくのが面倒とか、そもそも実家に帰らないとスーツがなかったとか、タイトな服を着るのが嫌いとか、色々スーツを着ない理由はあったけど、よく考えてみるとそれらはどれも僕が着なかった理由とは本質的には少し違うな、と僕は思っている。

僕がスーツを着なかったのは「スーツを着ることの後ろめたさ」を感じていたからだと思う。

そもそも大学院試験は、学力と意欲と人柄が評価される場だと思っているけど、試験会場でスーツを着ることはそのどれに当たるんだろう。

会場でスーツを着ている人は真面目で誠実な人柄だということだろうか、はたまたキチンとした服を着れる常識的な人というとこだろうか。ひょっとすると、夏の暑い中スーツを着てでも合格したいという意欲の表明ということだろうか。

そのどれもが服装で判断されるとしたら、少しバカらしく思えると同時に僕はある種の後ろめたさを感じてしまう。スーツさえ着ることで僕は真面目で誠実で常識的で意欲的な人に見えるでしょ?と宣言することを自分自身で少しずるいな、と思ってしまう。

似たような後ろめたさを昔感じたことがある。確か中学生の頃、人権学習で障碍者の理解のためのビデオを見た時。

内容はあまり覚えていないけど、障碍を持つ男性と健常者の女性が結婚する時に、女性の両親に猛反対されるというもの。結局両親は男性の人柄に惹かれ結婚を承諾することになるんだけど、配られた感想シートには、

「はじめ両親はどうして結婚を反対したと思いますか、またそれについてどう思いますか?」

みたいな問いがあった。当時少しは頭の良かった僕は、「障碍を持っていることだけで人を判断してはいけない」という趣旨のことを書けば先生は満足してくれるのだろうと瞬時にわかった。でもそう書くことは出来なかった。

それは、当時僕の親が障碍者支援に少し関わっていたこともあって、障碍者と結婚することの経済的な障壁や、結婚してから女性が今まで通りの仕事を続けられるのかどうか、なんてことを少しは想像することができたから。

だからそのまま「障碍を持っていることだけで人を判断してはいけない」と書いて先生に丸をもらうことがどうしても後ろめたかった。そんなに単純な問題じゃないことくらい中学生の僕にでもわかったし、みんなが予定調和的に正解の解答をして何かが解決したみたいな空気になる事にある種の気味悪ささえ感じたから。

結局適当なことを書いて先生に怒られた。怒られたのは一度や二度じゃなかったと思う。

当時は自分の考えを言語化することがそれほど上手じゃなかったから、先生にはひねくれたクソガキくらいにしか思われてなかったと思うし、そう思われて当然だと思う。自分でもこのモヤモヤの正体をうまく言葉にすることが出来なかったから。


昔から、優等生のフリをして優等生と呼ばれることがとても苦手だった。自分でない誰かが評価されているみたいだったから。そんなことは考えない方が楽に生きれるだろうなと理性的にはわかるものの、22年も積み上げてきたくだらないこだわりを今でもなかなか手放せずにいる。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?