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写真を撮るということ

昔、実家にいた頃だが、誰が撮ったかわからない風景写真が写ったキャンバスが2階の部屋の壁に掛けられいた。その時は何気なく見ていたし、当たり前のように部屋に溶け込んでいたのでまるで気には留めていなかった。

大人になり、自分で写真を撮るようになってふとそのことを思い出した。だいぶ昔のことなので、記憶が曖昧だけどモノクロームの風景写真だったはず。場所は近所の海辺とかだったはずだが、自分が生まれる前か物心つく前の時期に撮られたものなのでノスタルジックな印象だった。

時間は有限であり留まることなく絶えずなく流れていくものである。今日という日は過ぎ去ってしまえば二度と戻ることはない。写真や映像は刹那的で一瞬を残すための道具であり、一瞬の記憶を形として残すことができるものである。

「花の命は短くて 苦しきことのみ多かりき」(林芙美子『放浪記』)という言葉があるが、古来より儚くて移ろいやすいものに対して美を感じる「もののあはれ」という感覚は日本人には息づいている。年に一度、一週間ほどしか咲かない桜の花に対する憧憬はまさにその典型と言える。

写真は手段でありそのための道具であるのがカメラである。最近は高性能のデジタルカメラが普及しており、それほど経験がないアマチュアであってもプロと遜色ないレベルの写真を撮ることが可能である。同じ写真であってもどういう考えで撮ったかカメラに撮らされているのではなく、そこに撮影した人の意思は存在しているのか。小説や絵画同様、写真も自己表現の手段と考える。人柄は撮った写真に現れる。画質であったり構図やピントがあってるだの技術的なことが重要だというのは理解しているつもりであるが、いい写真が撮り続けるためにもっと大事なことがあるような気がしている。

自分自身、これまでは風景やスナップを中心に撮ってて、最近はポートレートも撮るようになって写真に対する向き合い方も変わりつつあるというか、今までぼんやりと考えていたことに対してより真摯に取り組みたいと考えている。これまでは誰に教わるでもなく我流で撮っていたので、写真についてもっと勉強してみたいし、写真を通じていろんな人と関わっていけたらと考える。


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