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老人は死すべきだという議論について

つらつらと書きます。
最近出てきている話題です。

わたしはこの議論について強い違和感を感じています。
別にこういった議論が自由になされること自体は構わないでしょう。
モラルや一般論からかけ離れて議論を交わすことに意義はあると思いますし、可能性を見出す上で、そういったことに縛られないことは重要です。

さて、この議論の中で語られるべき人の命の価値について。
あるいは、本質的にこの議論で語られるのは自分の命の価値について、です。

あなたの命の価値を定義づけているのって、なんだと思いますか?

これには明確な答えがあります。
社会です。

社会のありようによって、わたしの命の価値は紙屑同然になり得ます。

人間の命ってなんでしょう?
他の生物と比べて、何が違うのでしょう?
地球の中で、何が異なるのでしょう?その中に優劣はあるのでしょうか?

答えは、「そんなものない」です。

地球上で人間の命も他と等しく、何かの気まぐれで吹き飛ぶような儚いものです。
むしろ力という意味では弱い存在です。
単純な力比べで熊にも勝てません。

人間の命が尊いと言っているのは、人間なのです。
自然は残念ながらそんなこと言ってくれません。
自然はむしろ命には価値などないというが如く、弄ぶようにわたしたちより強い存在としてあります。

人間の命が特別だと言っているのは、人間だけです。

私たち人間は、そういったどうしようもない自然から身を守るため社会という集合体を生み出し、科学という力を捻り出して、どうしようもない力を持った自然に抗おうとしてきたのです。

その歴史の中で、わたしたちは多くの血を流しました。
皮肉にも自然に抗うための力を使って、人間同士を傷つけてきました。
本来、自分達を守るために獲得した力で、です。

あなたの命って何だと思いますか?

あなたの命はひとつだけですか?

あなたの命に繋がっている命はどれだけありますか?

あなたの命は、人の歴史そのままです。

私の命は、私の知恵や知識に関わる人、私の命に直接関係のある人、倫理や価値観、社会を生み出してきた人、ともに育った仲間、数えきれない命の偶然の繋がりによって生み出されたものです。

私の命には価値があります。
私の命を否定することは、人の歴史を否定することです。

わかりますか?
今ある税金がどうのとか、そういう次元の話ではないのです。
自分の命は守られなければならないんです。

自分の命を否定することは、人類全てを否定することです。

社会は人が生み出したものです。
言い換えれば、私が生み出していくものです。

人を否定する人の社会など、もうこれ以上あって堪るか。

私たちはもううんざりするほど、人を否定してきたのです。

人の命を、歴史を蔑ろにし、軽んじ、差別し、もう嫌というほど、殺したんです。

もう、嫌なんです。

わかりますか?

もう、そんな社会、嫌なんです。
老人は死すべきなんて議論、対象が違うだけで、何にも新しくありません。

そんなもの、もうやったんです。
そうして、人類の失敗を刻んだのです。

人を守ることができるのは人だけで、そのために自然を理解し、淘汰し、コントロールし、豊かさを求めてきたのに。
自分達の命の価値を認めるのは、自分達しかいないのに。

私の命を、人の歴史を軽んじる社会はもういらない。
人が人の命を蔑ろにする社会はもうやめにしましょう。

戦争も、差別も、もうやめたいのはそこにあります。

人の歴史は偉大なものです。
歴史は、人の経験の積み重ねです。
人の経験とは、人の命です。
歴史とは、人間の命そのものです。

自分達で否定するのは、もうそろそろやめましょう。

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