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他人の顔


住んでいる街も部屋も退屈じゃない。一日の密度が高い。充電がなくなるまで、歩いたり外の空気を浴びて考えを巡らせたい日があるのは変わらない。

コーヒーをこぼしてクリーニングに出したTシャツを18時閉店10分前に受け取りに出掛けた。池袋の喫茶店まで歩くか目白駅前の喫茶店まで歩くか迷って、マップを見なくても行けるほうを選んだ。

コーヒーフロートを飲んだ。どうでもいいことを1時間以上思い出していて、石橋夕帆監督の『左様なら』に出てくるようなカースト上位のグループにいながら苦しさを宙ぶらりんに抱えている女の子と数年前を重ねる。そうして書き留めたことも、もうどうでもよかった。

ガヤついた飲食店で一人食事を摂っているとき、食べ物美味しいなぁ〜としみじみ思う。たとえばシネマカリテがあるビルの3階の回転寿司で。

自分とは関係のない喧噪のなかで聴き慣れた音楽をイヤホンから流すこと。たとえば2022年1月6日の雪の降る午後、暗室で何枚か焼いた帰りのドリームコーヒー、カネコアヤノのグレープフルーツ。完璧な感じがした。

今でも映画とか一緒に観に行きたいと思う友達を夢で見かける朝、写真を撮っていたり文章を書く人だったらよかったのにと想像する。けれどその事について君は、表現したいものがあればきっと何かしていたかもしれないけど無いからこうしてここまで来てるんだろうねって言ってた。好きなのか嫌いなのかと訊かれれば勿論好きだけれど、会う口実がない。このまま一生会えなくなったらいやです。私が君にとってどれくらい引っかかる存在だったのかその片鱗を見てみたかった。目が覚めたときにやってくる感触で、現在が現在だと思い出す。

遠くなった人のことをひょんなきっかけで思い出すことはそれ自体がなんとなくドラマチックで、「もう会えない人」みたいなエッセイが視界に入るときの既視感には飽きている。

もし再会したらどんな素っ気なさで、初めの言葉はなんて言おう。意思を持たずに再び会うことなんて無いのに。
一人で過ごしているときより、渋谷のTOPの前の道や、新高円寺駅から中野方面へ向かう道、友達数人と互いに歩くスピードを合わせて歩いているときの考えごとのすきまみたいな脳内の場所で、再会する映像は造られる。

幡ヶ谷のforestlimitに音楽聴きに行った日、うわー懐かしいと思う横顔がいた。完全に一致はしなくて、まぁいるわけないかとは思った。

"かなみちゃんさ、今なに考えてる?"
と言葉が降ってきて、そう言われてちゃんとその人を見つめ返した。赤羽の、駅から10分くらい歩いたところにある喫茶店で向かい合わせで座っていた。
だれにも歩調を合わせなくて、5メートルくらい先まで行ったところでやっと立ち止まる調子だった。
住宅街のアパートの屋上にある小さな鳥居に賽銭を投げに行った帰りに寄ったその喫茶店は、ハヤシライスが水っぽくて最悪だった。

"永遠に続く夕暮れが欲しい
その代わり幸福は求めませんと"

ル・クレジオの『砂漠』は読破できなかったし、村上龍の『限りなく透明に近いブルー』は見たことのない見たくない世界だった。
わたしにとって吐き気がする作品を好んでいた。だから勧めた映画はほんとうは好きじゃない。
撮る数は少なくて、使用しているカメラが何なのか分かっていない風だった。写真に漂う空気がすごかったです。
23年も此処にいると、「知り合いと似ている人」なんて珍しくない。風貌が座敷わらしみたいな唯一無二性の高いひともいるけれど。

天気がいいから公園で食べたいとわたしが言うので、椎名町のそこのベンチでお昼を食べていた。横目に駆け回る3歳半くらいの女の子がいた。
名前がノアちゃんという。"えまちゃんとノアちゃんと会うって言ってみて"とあなたが言うのでそうするとしっくり来るのだった。
だれがわたしの歴史のなかにいてだれが歴史の外にいるのか、一応の区切りが曖昧になること。
夢で起きたのか、引き出しから取り出しづらい奥の過去か。
この頃はどんな本を読んで漂っているんだろう。




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