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オフ・ブロードウェイ・ミュージカル『Forever Plaid』感想(2022/5/15)

★ネタバレしかありません。1に関してはネタバレを極力おさえた(つもり)です。2と3はネタバレだらけ。
★長いです。ざっと12000字あります。
★2点追記しました。(2022.11)

1 感想:作品全体について

2022年5月15日、オフ・ブロードウェイ・ミュージカル「Forever Plaid」を観劇してきました。ちなみに17時30分からの回です。
観てよかった。本当に、これ以上なく楽しかった!
ひとつの作品を鑑賞した満足感とともに、ライブやコンサートでしか味わえない高揚感にほくほくしながら劇場を後にしました。ミュージカルだけでなく、「フォーエヴァー・プラッド」というコーラスグループによるショーも楽しむことができる。あまりにも一石二鳥。
少しでも音楽が好きな人なら、とりわけ生のパフォーマンスでしか得られない熱量や双方向性が好きな人なら、必ず楽しめるのではないかと。個人的には友達と一緒に行きたかったなあとちょっと後悔しました。終演直後の高揚をわかちあえたらもっと楽しかったかもしれない。誘ってみればよかったなあ。

とにかく目が足りない。

長野くんのファンなのに長野くんだけを目で追っていられない。庇護欲をかきたてる純粋無垢な末っ子ジンクス長野くんのかわいさにどうにもときめきが止まらないのですが、そういうオタク根性を軽々と凌駕してくるバチバチのパフォーマンスであり作品だったと思います。
全員が抜群にかっこいい。
どれくらいかっこいいかというと終演する頃には全員を推し始める勢いでかっこいい。

それから、登場人物ひとりひとりの生きざまも好きになりました。彼らが時折こぼす生前のエピソードだけでなく、お互いに向けた言動やちょっとした仕草から4人の個性が滲むように伝わってくる。
これは日常の人間関係にも少し似ているところがあって、つまり履歴書のようにその人の人間性が羅列して渡されることは滅多にない。
会話や行動をともにする中で少しずつ情報が明らかになり、その過程で相手を好きになったり嫌いになったりする。芸能人を推しているときもこれに近しい感じがあって、つまりMCや雑誌のインタビューなんかでパーソナルな情報が小出しにされる。
フォエプラはコミュニケーションや細かな動作が多いぶん、そういった身近な感覚がたくさんはたらいたのだと思います。そうして、だからこそこの4人をとりわけ好きになってしまう。
三者三様(フォエプラだから四者四様か)の爆イケパフォーマンスを始め、演技や脚本・演出の巧みさにも始終圧倒されました。詳しくは最後に。

あと個人的には終盤の台詞が特に刺さりまくったので、そこらへんも後半で細かく書いておこうと思います。
自分でもちょっと引くくらい泣いてマスクがえげつないことになったのですが、それは自分の中のコンプレックスというか、生きていく中で10年近くずっと苦しかったものが自分の中にすとんと落ちた感覚もあってのことでした。こんなに刺さる言葉とは久々に会ったなとも思いました。情緒が安定していないので長々書くと思います。大げさではなく、今まで見た中でいちばん好きな作品かもしれないです。
それほど心に深く残った1時間50分でした。

作品全体について

あらすじはこちら
ストーリーはシンプルなのに単調さは皆無、むしろ会話のテンポやわざとらしくないコメディ調が心地よくて何度もお腹の底から笑いました。
アドリブの振り幅も大きく、回ごとの展開や表情が楽しめるのも魅力です。さらにキャラの立ち方も超濃厚。
その一方でキャラクターが役者に馴染んでおり、役者本人の要素が垣間見えたり演出に盛りこまれたりする場面も多々あります。両者のバランスが絶妙でした。

また、上演時間のほとんどを歌が占めている以上、役者への負担は少なくないはず。
その上、役者は作品「Forever Plaid」の観客に向きあいつつコーラスグループ「フォーエヴァー・プラッド」の一員としてショーに来た観客に向けたパフォーマンスもこなさねばなりません。
こうした二重構造は脚本・演出はもちろん、ひとえに(バンドを含めた)役者の腕にかかっているのだと思います。月並みな言葉ですが、本当にすごいと思いました。既存の曲を歌う大変さはもちろん、歌詞の和訳がすっと入ってくる点にもすっかり感服しました。

観客参加型である点もうれしかったです。
「Forever Plaid」は、いわば作品内作品です。
主人公4人によるショーの形式を取るため、MCもあれば観客が参加して劇場が一体化する瞬間も多々あります。つまりミュージカル「Forever Plaid」の観客は、コーラスグループ「フォーエヴァー・プラッド」のショーの観客でもあるということです。
バンドが「地上に戻ってきた「フォーエヴァー・プラッド」のショー」という設定の中にいることも一体感を高めていたのかなと思います。
コロナ禍でなければ声を出して盛り上がれたのに……と悔しく思いつつも、手拍子やフリなどを全身を駆使し、誰ひとり取り残さないという気概溢れた一体感でした。
さらにコロナ禍ならではの小ネタや観客が声を出せない環境でしかできないパフォーマンスもあり、これはこれでよかったのかな……となんとも複雑ではありますが。
ともあれ、閉じた作品を外から覗くのではなく、作品に入りこんだような感覚が新鮮でした。

冒頭の繰り返しになりますが、少しでも音楽が好きな人なら、とりわけ生のパフォーマンスでしか得られない高揚や双方向性が好きな人なら必ず楽しめる作品です。
もし演者の誰のファンでなかったとしても、ショーを通して「フォーエヴァー・プラッド」のファンになってしまう。だから何歳でも・誰でも・曲(セトリのいっさい)を知らなくても楽しめる。そういう作品だと思います。
大好きです。
 
続いて個人的な感想を書きます。
序盤でちょっと触れた終盤の台詞、それから「10年近く苦しかったものが自分の中にすとんと落ちた感覚」についてです。アドリブや雑念はいちばん最後にぐちゃぐちゃっと書きます。
ネタバレ云々は今さらですが、自己解釈や隙自語のオンパレードが苦手な方はお引き返しください。そもそも既に2500字はあります。えっ多。ここまで読んでいただきありがとうございました。
ちなみにここから9000字ちょっとあります。
えっっ多。
読み進めてくださる方、ありがとうございます。
もうしばらくお付き合いください。
 


2 「フォーエヴァー・プラッド」と『何者』

「俺たち死ぬわけじゃねーから」「生きていかなきゃいけねえんだよ!」
忘れもしない解散コンサート直後、"三宅健のラヂオ"に突撃して管を巻いたのは我らがV6の井ノ原快彦だが、コーラスグループ「フォーエヴァー・プラッド」はそもそもはなから死んでいる。生きている限り可能性は無限にあるが、死んでしまってはひとたまりもない。
おまけに彼らのジャケットはからっぽだ。装丁だけで、中には何も入っていない。記録があるならうっかり脚光を浴びる希望もあろうに、彼らは後世で評価される手がかりすら遺さず死んでしまった。

「愛こそすべて」の前、ずっとステージに立っていたいとスマッジは言った。
このまま歌い続けたら戻らなくて済むんじゃないかな?生き返ったら俺たち上手くいくんじゃないか。
私の席からはしおしおと目を伏せるジンクスの横顔がよく見えた。しょげかえって寂しい顔をしていた。
誰もなにも言わない。しばらく薄暗い静寂があり、やがて叫んだスパーキーの言葉は鋭かった。松岡充さんの気迫で空気がびりびりと震えるような思いがした。

「戻るってどこにだ?集中治療室か?」「俺たちが死んでも誰も気づかなかった!」

音楽が心底好きな4人だ。だってあんなに輝いていた。けれど、スパーキーに誰も反論しなかった。
できなかったのだと思う。スマッジとスパーキーの思いはどちらも本物で、きっと4人みんなが両方を持ち合わせていた。一見正反対に見えて矛盾しない感情だ。
スパーキーとスマッジのぶつかりあいに固唾をのみながら、私は朝井リョウ『何者』の一節を思い出していた。

頭の中にあるうちは、いつだって、何だって、傑作なんだよな
朝井リョウ『何者』

スーツケースに詰めこんだからっぽのジャケット。
達成できなかったステージ。
とうとう手にできなかった衣装。

生前の彼らは大スターを夢見ていた。音楽が好きでお互いを好きでアメリカンドリームを追いかけていた。
しかし、それだけではなかったはずだ。たとえば焦燥があったと思う。このままで売れるのか。いつになれば大きなステージに立てるのか。
周りからの評価はいつ着いてくる?馬車とジェット機のくだりや、彼らがパフォーマンスしていた場所の規模感(開店パーティや結婚式など)への言及からも、彼らのもどかしさがひしひしと伝わってきた。
頭の中にあるうちはいつだって傑作だ。死んでからはなんとでもいえる。空っぽのジャケットもそう、一夜限りのショーもそう、生きていれば売れたはずだなんていう希望的観測も。

思い描く段階ならなんとでも言える。でも実現したが最後、途端にそれがダメになる。

「フォーエヴァー・プラッド」は、そうやってダメになる辛さを多分誰よりもわかっているのだと思う。
生き返っても成功しない未来が脳裡にちらついてしまう4人だ。夢と現実のギャップに人一倍苦しんだはずだ。
 
彼らの死因もちょっとしたポイントだと思う。
スパーキーが「カソリックの女子生徒で満員のバス」というフレーズを発する。気になったのが、死因について語るとき「カソリック」「バス」という単語を必ず用いていることだ。あらすじでも劇中でも、定型表現のごとくセットで登場する。これがちょっと引っかかったので、終演後しばらく考えてみた。

「バス」は飛行機との対比だろう。スパーキーの台詞だ。彼は飛行機事故で亡くなった偉大なミュージシャンの名前を挙げ、自分たちの死の凡庸さや卑小さを嘆く。偉大なミュージシャンはいわば主体として死んでいった。しかしコーラスグループ「フォーエヴァー・プラッド」は誰にも気づかれず死んだ。飛行機より遥かに小さなスケールで、端役として死んでしまった。彼らはアマチュアで、4人しかおらず、カソリックの女子生徒たちにすっかり隠されてしまった。誰も彼らの夢やパフォーマンスを気に留めなかった。

「カソリック」については2点思い至ったので書き留めておきたい。ひとつは神の存在を匂わせたかったのかなと思った。もうひとつは大衆(特に伝統的価値観や富裕層)のシンボルとしての「カソリック」だ。
4人は生き返っても「神様ありがとう!!!」とは言わない。その場で祈り始めるなんてこともない。彼らの宗教について言及はないが、彼らは決して神を好意的に捉えてはいなかったと私は思う。彼らは神に選ばれず、大衆に見過ごされ、人知れず夢半ばで亡くなった。

世の中の大半は選ばれない側の人間だ。

そして、語弊を恐れずいうならば、コーラスグループ「フォーエヴァー・プラッド」はどこまでも選ばれない側の人間たちだった。

「いい加減気づこうよ。私たちは、何者かになんてなれない」
朝井リョウ『何者』

就活をしていると、企業が求めているのは「能力があり、なおかつ互換性の高い学生」なのだと思う。
集団面接などで、他の学生と自己PRや強みが被ることがある。こういうとき、自分が他人と互換される人間だと痛感する。三日後くらいにお祈りメールを食らう。
お前は他人の下位互換だと突きつけられる。
満員電車に揺られていると、私が死んでも何も起こらないよなと考える。突如として私が消えても電車は通常ダイヤで走るだろうし、こんなにたくさん人がいても影響を受ける者はひとりもいない。

スペシャルになりたい。誰にも負けないものが欲しい。評価されたい。自分の好きなことで大成して、「これが私だ」と胸を張りたい。

私は作家になりたかった。なりたかったというか、なりたい。ぜんぜん過去の話ではない。物心ついた頃から21歳の今まで、ずっと現在進行形だ。細々と書いてはたまに応募して落選する、という一連の流れもだいぶ板についてきた。まったくうれしくない。
大学生になって、小説を書く時間は年々減っている。
たぶん社会人になったらもっと減る。平積みされた本の作者の年齢がだんだん自分に近づいてくる。年下の作家の名前を見る機会も増えてきた。
そうして、もう「書くのが好き」とは言えないなと思った。時間もろくに割けず、落選を重ね、他人を妬んでばかりいる。そのくせ、周りに「書くのやめたんだ」と答えた瞬間、からだがからっぽになった気がして猛烈に苦しくなった。
何者かになりたかった。スペシャルになれない。
いつも誰かに負けてばかりで、評価されることもない。
自分の好きなことを好きだということすらままならない。いつだって頭の中では傑作なのに。
虚しさに耐えきれず、夜中こっそりワードを立ち上げる自分がいやだ。この期に及んであきらめがつかない、そういう往生際の悪さがいやだった。

スパーキーとスマッジが気持ちを吐露した後、それまで聞き役に徹していたフランシスが3人に語りかけた。
最初は穏やかに始まった台詞は次第に熱量を増し、最後は慟哭混じりになっていた。
序盤からずっとメンバーを鼓舞し引っぱっていたフランシスの、内心に抱えたやるせなさや苦しさがひしひしと伝わってくる。フランシスが泣くより先に私が泣いた。川平慈英さんの声の震え、息づかい、その切実さにただただ圧倒された。

「俺たちは今ハッピーだ。そうだろ?」

歌を楽しむこの感覚、今この瞬間も4人が構築するこの音楽にはなんの嘘もない。俺たちはハッピーだ。
ハッピーだし、何よりこんなに素晴らしい感覚があるじゃないか。

スマッジは言った。
「死んだら財産を手放さなくちゃならない。でも、実はスーツケースひとつなら持って行けるんです」
私はあの場面がとても好きで、というのはスマッジの素顔を垣間見る初めてのタイミングだからだ。当初状況に怯え、緊張しきりだったスマッジが心底楽しそうに思い出を語る様子は子どものようにまっすぐで嘘がない。
ところで、鈴木壮麻さんの演技の緩急、低音の響き、もう上手く言葉にできないくらい素晴らしかった。本当に素敵だった。ファンクラブに入ろうか真剣に悩んでいるところです。閑話休題。

スーツケースひとつ。

スマッジにとってそれはレコードでありからっぽのジャケットだった。
彼の話を聞いているうちに、レコードやジャケットはいわばシンボルなのかもしれないと思った。つまり物体はいわば何かしら目に見えないものの具現であり、本質として物体以上の意味を持つのではないか。

思うにそれは、物体に付随した思い出であり気持ちだ。

大切にしまいこんだレコード。
ドーナツ盤を回収業者にこっそり貰う時のときめき。自分で買ったレコードの表面のビニルを剥がすときの高揚感は、スマッジが語った通りだろう。
中身のない自分たちのジャケット。
デザインを考えるとき額を寄せ集めた時間はどんなに楽しかっただろう。安いカフェで、高校の教室で、スパーキーとジンクスの家で、4人分の夢を持ち寄り語り合った時間があったはずだ。そうでなければレコードの装丁だけ完成しているなんてないはずだ。

フォエプラの好きなところに、「余白」がある。
描かれるのはあくまで死後の彼らであり、生前の様子の大半は観客の想像に委ねられている。
もちろん丸投げではない。諸所で思い出が語られるし、他のメンバーの口から話される内容もある。
これは脚本のすごさであると同時に、含みを持たせて演技をする役者の力量に因るとも思う。
そういう、ちょっとした台詞や小道具を材料として、観客側には彼らの生前を自由に思い浮かべる余地が残されている。この「余白」によって私たちは4人を引き寄せやすくなるし、いっそう親近感を抱くことができるのだと思う。話がそれた。

スーツケースの中身。

すなわち、死んでなお持っていける財産とは、気持ちであり感覚であり熱量、あるいは記憶なのかもしれない。
フランシスの言葉を借りれば、構築された音楽や感覚、ショーを通して「ハッピー」であるということだ。
そして、そういったスーツケースの中身は、才能や名声の有無に関係なく誰にでも与えられる。スパーキーの言う通り、彼らの死は誰にも気づかれなかった。ジャケットはからっぽだ。後世で評価される手がかりすら遺さず、誰も彼らの夢やパフォーマンスを気に留めなかった。彼らは選ばれない側の人間だった。

彼らは週末だけ「フォーエヴァー・プラッド」になった。生活をしなければならないからだ。音楽だけで生計を立てるほど彼らは大成していなかった。音楽をこよなく愛し大スターを夢見て、それでもすべての時間を音楽に捧げることができなかった。もどかしかったはずだ。身過ぎ世過ぎを度外視すれば生きていけない。生活を投げ打ってまで夢を追うのはかっこいい。かっこいいが決して現実的とはいえないし、そこまで踏み切った勇気を出せる人が果たしてどれだけいるだろう。そして、これは私自身のコンプレックスでもあった。

けれど、4人を見ていて思った。
気持ちや感覚、熱量、記憶は本物だ。死すらそれらを損なうことはできなかった。まして、才能、名声、立ったステージの大小がそれを打ち消すことはできない。
週末だけの活動、からっぽのジャケット、音楽だけでは生計を立てられない。
それでも構築された音楽や自分の感覚、「ハッピー」だという気持ちを、いかなる他者も否定しえないはずだ。

彼らはあの後どうなったのだろうか?
「きっと天国でも楽しく歌ってるかも」と思いたいが、おそらくそんなことはないだろう。
彼らはアメリカの人々なので、(彼らが神を信じているかはさておくとしても)とりあえずキリスト教の死生観に則って考えてみる。
カテキズム風の表現を使うならば、彼らは復活の希望をもって眠りにつく。
死んだら即天国というわけではない。
魂は眠りにつき、終わりの日に復活したてもう一度からだを得る、というイメージがあるはずだ。
彼らは歌うときいつも4人だったし、死ぬときも一緒だった。しかし、厳密に言えば人間は死ぬときいつも1人だ。そうして、おそらく眠りにつくときも1人なのだろう。そう考えると、最後メンバー全員とハグする4人の名残惜しさにも納得がいく。真っ暗な静寂や孤独な眠りの中、彼らは思い出を反芻するのかもしれない。

初めて『何者』を読んだとき、あなたは何者かではあるじゃんと思った。
大学在学中に堂々の作家デビューを果たして「朝井リョウ」という何者かになったあなたが、皮肉にも『何者』によって直木賞作家という何者かになったあなたが、「いい加減気づこうよ。私たちは、何者かになんてなれない」と書いてしまうのか。
そうして、その読者である私は何者でもなく平凡なまま生きていく。高みからめった刺しにしてくるじゃん。
それってなんの嫌味?と、当時高校生の私は思った。
いま考えるとおそろしく斜に構えていた。(私は朝井リョウさんの大ファンです。念のため) 

フォエプラはそうした構造に少し似ていると思う。
私たちからすれば選ばれた側である役者が選ばれない側の人間を演じている。

今回フォエプラを観て改めて実感したのは、私からすれば選ばれた側の人間である彼らもまた何者にもなれない虚しさを抱えうるということだ。
長野くんの下積み時代の長さはV6のファンならば誰もが知るところだし、その間のもどかしさや焦燥感は想像にたやすい。朝井リョウさんとて、何者でもなかった時代があったはず。
その上、デビューすれば安泰とはいえない世界だ。オーディションという場があるように、選ばれない経験だってたくさんしているだろうし、なにより彼らは音楽や文筆で生計を立てねばならない。隣の芝生は青く、上を見れば果てしない。フェーズが違うだけで苦しさの内訳はそう変わらないのかもしれないと僭越ながら考えた。ミュージカル「Forever Plaid」は芸歴が長く様々な経験を積んだあの4人だからこそ演じられるのだろう。
 
コーラスグループ「フォーエヴァー・プラッド」は平凡だった。

彼らはビートルズになれなかったし、デビューすることもなく、誰にも気づかれず死んでしまった。どこまでも選ばれない側の人間だった。それでも彼らは音楽が大好きだった。
終らないショーはないし、終わらない人生もない。
いつ夢がかなうかわからないし、人生に至ってはいつ終わるのかもわからない。不確定要素ばかりでも彼らは歌い続けていた。
音楽をこよなく愛していたし、ステージにたつとき彼らは間違いなくハッピーだった。
だって彼らの気持ちや感覚、熱量、記憶は本物なのだ。
死すらそれらを損なうことはできない。まして、才能、名声、立ったステージの大小がそれを打ち消すことはできない。週末だけの活動、からっぽのジャケット、音楽だけでは生計を立てられない。それでも構築された音楽や自分の感覚、「ハッピー」だという気持ちを、いかなる他者も否定しえないのだ。悔しさも虚しさも名残惜しさもある中で、それでも和音を全力で築きあげる4人は最高にかっこよかった。
同時に、それは私のコンプレックスに対する答えでもあった。

他人の下位互換でしかない、いなくなっても何も起こらないしスペシャルになれない。いつも誰かに負けてばかりで、評価されることもない。自分の好きなことを好きだということすらままならない。
夢のために高校を中退した幼なじみを見るたびに「作家になりたい」なんて言えなかった。他人を妬み、落選を重ね、夢のために生活を捨てる勇気も出せない。
「書くのやめたんだ」と言葉にしても、この期に及んであきらめがつかない。
そういう、好きなものだけを大切に生きていけない悔しさ、凡庸さ、往生際の悪さ。
それらすべてをゆるされた気がした。

私はスペシャルではないし、何者にもなれない。
この先社会に出て働くし、小説一本で生計を立てる日は来ないと思う。ぜんぜん時間を割けず、もしかしたら次は賞を取れるかもと限りなく不可能に近い期待を抱いて落選を重ね、書店に入る度に嫉妬で死にそうになりながら生きていく。
それでも、自分の凡庸さが「好き」を否定する証左にはならないのだと、肩を強くたたかれたような気持ちになった。文章を書くときの高揚、楽しさ、達成感。生活を優先しようが結果が何も出なかろうがそれらすべては本物で、誰にも何にも否定されることはない。

書くことが好きだと言ってもいいのだと、そう思うことができた。

フランシスは自分たちの立った小さなステージをいくつも並べ、それは自分たちにとっての大舞台だったのだと言った。
生きている間はいくらでも挑戦できる。
それでなんの結果も出せなかったとしても、私あんたの書く話好きだなあと言ってくれるただひとりがいれば、それは私の人生の総精算において直木賞になるのかもしれない。そうして、自分の書いたものが初めて部誌に載ったときの喜びや書きあげた達成感、上手いこと書けた高揚をスーツケースひとつに詰めて持っていけるのかもしれない。
私にとって、フォエプラはそういうメッセージのある作品だ。

書くことが好きだ。

胸を張って言える。今なら言える。
よみうりホールを背に東京駅へ歩きながらそう思った。
 


3 ネタバレ・雑念・煩悩

あーー!!!!!!最高!最高でした!死ぬときの走馬灯はフォエプラがいいなあ……(?)
まずもって(当たり前だけど&上から目線だけど)全員めちゃくちゃ最高に歌が上手い!!!

松岡充さん、声量はもちろんのこと、声のレパートリーもものすごい。クールなの?キュートなの?どっちもです……(滂沱の涙)黄金のカーディガンのくだりと、あとは消毒のアルコールをすごい持ち出してくるアドリブ!大好きだなあ……全部大好きだけどさ。
SOPHIAのコンサートを観てみたい。円盤あるのかな。買おう。しかも笑顔がものすごく素敵で、これは余談なのですが、画像検索したら八重歯がめちゃくちゃキュートでした。なんでもっと早く出会わなかったんだ。

鈴木壮麻さんの舞台ももっと行ってみたいし、ファンクラブに入りたい。
なんといっても低音ね!!!
低音があんなにかっこいい人ほかにいないってば。しかもピアノも弾けちゃう。マジで???ありあまる天賦の才がすごすぎる。勇敢なるスコットランドではおちゃめだし、スペインの女での吹っ切れ具合がすごい。いや川平慈英さんも松岡充さんもすごいんだけど。でも鈴木壮麻さんの吹っ切れ方がものすごい。
スフィンクス!でもってウーバースフィンクス!!!

川平慈英さんの舞台もめちゃくちゃ行きたい。
流れ星をポケットに入れたいです!!!!!!(錯乱)
声のハリも台詞のテンポも最高過ぎる。アドリブや素の部分をぶちこむタイミングも絶妙。フランシスは川平慈英さんにしかできないなと思ったし、もし今後フォエプラが別のキャストで演じられるとしても、私の中のフランシスは川平慈英さんしかいないと思う。声……好き……16tonsで長野くんとわちゃわちゃしてるときスーパーかわいかったです。楽天カードマンの人だと思っててごめんなさい。でも楽天カードマンのアドリブおもしろかったです。

それに長野くんの声の芯のある甘さ、高音の素晴らしさったら!!!わかっちゃいたけど大好きだなと改めて思いました。
トニセンの舞台に行きたいなあ。
あと長野くんの体幹どうなってんの。
特に16tonsがすごかった。めちゃくちゃ腰が入っていたし、いついかなるときもターンのキレがすさまじい。ファンなら親の顔よりよく見た動きです。なんたってV6ですからね!!!!!!
わかっちゃいたけど大好きだなと思いました(2回目)
 リピチケ欲しかったなあ……。

パンフレットにも書いてありましたが本当に家族みたいな空気感。じゃれあってるときにフランシスもとい川平慈英さんが「いてえ!いてえいてえ!あの……当たってる!当たってるから!」と悲鳴を上げているのがめちゃくちゃおもしろかった。

そもそもジンクスがかわいすぎて何事???

スーツの裾握る長野くん、鼻にティッシュ詰めて真顔でこっち見る長野くん、お兄ちゃんズに衣装をなおされる間おとなしい長野くん……(蘇る走馬灯)
(ジンクスあれはきっと普段から服だのなんだのなおしてもらってるんだろうな、だいたい高音を出すと鼻血が出るっていう設定自体致命的にかわいい。書きながら顔がニヤけてきた。なに?かわいいんだけど) 
マチルダに至っては帽子のつばを持ち上げてもらいグロッケン(合ってる?)弾けた瞬間褒めちぎられまくるのももうぶっ飛んでかわいかった。
くすぐられて首すくめたりスーツを直してもらったりいちいち緊張してしまったり……みんなの中で大切に見守られているジンクスが成長していき、そうした成長を喜んでなお3人がジンクスに向ける愛おしいまなざしが私の心臓を鷲づかんでいきました。

あと日曜日の夜ね!!!
おそらくスパーキーとジンクスは連れ子どうしで義理の兄弟にあたるのですが、長野くんと松岡充さんと肩を寄せ合ってはしゃぐ場面、あれは宇宙いちかわいかった。まぶしすぎて目がくらみそうになった。松岡充さんのキュートとクールのギャップがすんごくてとんでもないし、長野くんのかわいさがカンストしていた。
あとアンコールでひょっこり出てお手振りする長野くん!!!びっくりするくらいかわいかった。
曲の中でかっこつけて投げキスするのよかったな……
ジンクスだからする投げキスであって、あれはV6の長野博はしない投げキスだった(たぶん) 
あと絶対目が合った、私は信じてる、ぜっっっったいに目が合った(自分に言い聞かせる顔)


身も心も、スタッフの方を連れてきてピアノを弾いてもらうところ、松岡充さんの連行してきた「スタッフ」がまさかの三枝俊治さんだった(しかも初めてのパターンだった)ので長野くんがお手本でピアノを弾くのをめちゃくちゃ嫌がってるのもかわいかった。なんというかもう素が出ちゃってたし、なんなら鈴木壮麻さんも恐縮しきりなのもおもしろかった。三枝さんもしれっとアレンジなんて加えちゃってしっかり弾きこなしていたのも含めて最高の流れでした。川平慈英さんや松岡充さんから「ジンクスがいちばん嫌だろ」って笑いかけられてるのかわいかったな……。私何回かわいいって言った?


満足感が……なんかディズニーの帰りみたいだった……観客ありきのショーだからかもしれない。コーラスグループ「フォーエヴァー・プラッド」は観客に歌を届けたいという思いがあって、間違いなくこちらを見据えているので、そういう満足感も得られる。観客参加型ってこんなに楽しいんだなあ……
ネコババして!トンズラこいた!!!(唐突)

何回でも観にいきたいし何回でも参加したい。あんなに楽しい1時間50分なんて他にありますか?ないよ。
あっという間だった。
劇中で4人が終わりたくないなあ……って言ってたけど私もずっと観てたかったよ。終わってほしくない。
あの4人が演じるフォエプラをもっと観たい。
円盤出ないかなあ。
でもフォエプラの楽しさは同じ空間を共有してこそっていう気持ちもある。
それに、これは本も同じだけれど、21歳の私がフォエプラを観て得るものとこの先の私が得るものはおそらく違うはずで、それを確かめたい気持ちもある。
ファイナルだなんて言わないで、何歳になっても続けてほしい。
本当に楽しかった!!!!!!!!!
フォーエヴァー!!!!!!プラッド!!!!!!


追記①

スパーキーを演じた松岡さんにこのnoteが届くという大事件が発生しました。(2022.05.18)
月並みな言葉ですが、ご本人にこの気持ちと感謝を伝えられたことが本当に嬉しいです。改めて、これからも文章を書き続けようと強く思いました。本当にありがとうございます。

追記②

オフ・ブロードウェイ・ミュージカル『Forever Plaid』を観たあと真っ先に書いた小説で賞を頂くことができました。『Forever Plaid』が背中を押してくれなければ書くことができなかったと思います。
デビューに繋がるような大きな賞でこそありませんが、私にとっては何にもかえがたい喜びであり、大きな一歩となりました。本当にありがとうございます。『Forever Plaid』という作品が、これからもこの先もずっと大好きです。(2022.11)

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