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日常をつくる


昨年末から揖斐川町は選挙が続いている。先週も、家の近くを走る選挙カーが、こんなことを言っていた。「変えなくては変わらない今、変えなくては変わらないんです、変わるために変えるんです」

何を言っているのか、よくわからなかった。どうしても現状を変えたいと思っている人が、選挙カーに乗って叫んでいる、ということは、わかった。でも、その人と自分が、同じ目的や利益を共有しているのか、ということは、わからなかった。

正直に言うと、最後の「わからなかった」の部分は、理解が及ばない、というよりは、不信感に近い感情だったと思う。選挙カーが「変える」と叫んでいたとき、ぼくの心の中の一部では、「それは、自分の生活とは、関係ないなあ」と思ってしまう。政治システムと生活は密接に関係していることは十分に理解しているにも関わらず、あの選挙カーと自分の利害は、関係ないな、と思ってしまう。

四年に一度、オタマジャクシとセミの幼虫が成長して、カエル🐸と連呼したり、民民と鳴いたりする。昔、そういうお祭りにある程度の意味があったのは、それ以前の日常の暮らしの大部分を、社会全体で共有していたからだと思う。だから、言葉や世界観が、ある程度、共有されていた。あの瞬間、ぼくと選挙カーの間に、共有されているものは、あったのだろうか。

昨日の県知事選の投票率は48.04%だった。「自分の日常は、いったい誰と共有されているのだろうか」と思って、投票に行かなかった人は、きっと少なくないと思う。日常がなければ、お祭りはガス抜きか、フリーパスの関所になってしまう。その状態で、地に足をつけず戦わざるを得ない候補者(特に、地盤が固まっていない新人)も、なかなか大変だっただろうな。

お祭り頼みの戦略よりも、日常から何かを共有する人を増やしていく戦略のほうが、可能性があるのかも、と思った。この選択を取れば、必然的に、ゆっくりとしか変わらないし、「変える・変えられる」関係から「お互いが変わっていく」関係にならざるを得ないし、「この人に任せれば全部OK」というコミュニケーションは成立しなくなる。でも、ぼくはそちらを選びたい。

3月末まではバタバタで、とても想像ができないけれど、4月以降はもう一度、生活や日常や地域に足をつけて、何ができるかを考えてみたいな、と思った。

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