それはお前がやるんだよ
「あるべきはずのものがない」と感じたときにどうするか、という話をする。あるいは、「あるべきはずのものがない」ことの表現について。
例えば、UAの「スカートの砂」という曲がある。最近知ったばかりなのだが、名曲だ…。できれば、この原曲を最後まで聴いてから、以下に進んでほしい。
「スカートの砂」は、あるライブではこのように演奏される。これも素晴らしい名演だ。
ここから、「スカートの砂」原曲と、上のライブ演奏を比較して考察する。大前提として、音楽の楽しみ方は人それぞれで、自由に享受すべきである。あくまで「僕はこう思う」という範囲の記述となる。
上のライブ演奏の編成は、ギター、ドラム、ベース、ボーカルの4人で、標準的なバンド編成だ。
それ以外の奏者もステージ上にいたのだが、動画の冒頭に退出してしまっている。
さて、「スカートの砂」原曲で、ボーカルを除いてもっとも印象に残る要素は何だろうか? おそらく、ほとんど全ての人が、スティールパンのリフ、ハモンドオルガンによるコードの裏打ち、揺れるリズム、の3つを挙げるのではないだろうか。しかし、この3つが、上のライブ演奏では省略されている。原曲よりも若干早い疾走感のあるテンポで、コードを鳴らす者はほとんどおらず、キャッチーなリフも聞こえてこない中を、曲が進行していく。もし、原曲通りのアレンジや展開が大好きで、強烈に脳裏に焼き付いていたとしたら、あまりの印象の違いに驚くだろうし、同じ曲だと気付かないかもしれない。
繰り返すが、「スカートの砂」の原曲は、南国感のあるスティールパンのリフと、ハモンドオルガンの明るく楽しい雰囲気、踊りたくなるようなレゲエのハネ、この3つの要素が大部分を構成している(個人の感想)。だから、上のライブ演奏を聴いた人の多くは、こう思ったんじゃないか?
あるべきはずのものがない、と。
加えて、上のライブ演奏の奏者はいずれも、聴衆があるべきはずと考えている要素を埋めようとはしていない。それどころか、安定したパターンを繰り返す原曲とは異なり、ある種の不規則さや予測不能さを伴う方向に演奏を解釈し、発展させている。ギターはほとんどコードを弾かないし、ドラムはパターンを刻んだりしない。原曲が頭に残っていればいるほど、あるべきはずの状態と実際の演奏の乖離が生じ、余白となって脳内に広がっていく。
これは……
あるべきはずのリフがない、
あるべきはずの和音がない、
あるべきはずのアクセントがない……?
聴衆がこのように感じれば感じるほど、脳内の余白の中で「あるべきはずのもの」の輪郭が浮かび上がっていく。そして、演奏が進むにつれて、奏者の誰もが、私が「あるべきはずのもの」だと感じる部分に手出しをしないのだ、ということが理解されていく。頭の中に広がる豊穣な理想と、目の前で繰り広げられるスリリングで余白のある演奏の間にあるギャップが、どんどん広がっていく。ああああ、スティールパンの音色が恋しい! コードの和音感がもっと欲しい!
ある種の臨界点を超えると、その「あるべきはずのもの」は、目の前の演奏と同じくらいの音量で、頭の中に響くようになる。スティールパンの音色で原曲のリフが再生され、コードが鳴っている。この状態に至り、人は気付くのだ。「ああ、この余白は、私が埋めるべきものだったのだな」と。
あるいは、奏者の人々からの、下記のようなメッセージだと理解してもよいのだと思う。「君たちがイメージできる演奏は、君たちがやってくれ。私たちは、君たちがイメージできない演奏をやるから、君は君のイメージ可能な方法で、私たちの演奏に参加してほしい。何が足りないのか、イメージできたんだろ? それはお前がやるんだよ」
UAが同時期のことを語ったインタビューでは、原曲と同じ演奏を繰り返すことへの疑義が呈されている。
ある場面で、「あるべきはずのものがない」ことをそのままにしておくことは、奏者と聴衆が、対等にステージを構成する(参加する)方法として、優れた選択肢なのだと思う。成功させるためのハードルは高いかもしれないが、しかし、代え難い・得難い体験を得られるという点において、唯一無二の表現手法でもある、と言えそうだ。
最後に。上のライブ映像と同じ時期に、同じメンバーで収録されたライブアルバムが、UA「la」だ(2004)。もちろん、「スカートの砂」も収録されている。ぼくはまだ未聴だ。このアルバムでは、どのような表現方法で演奏されているのだろうか。一流のミュージシャン達による、聴き手へのメッセージがどんな内容なのか、楽しみで仕方ない。
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