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いつも海が見える

 どんな人にも光を放つ一瞬がある。その一瞬のためだけに、そのあとの長い長い時間をただただ過ごしていくこともできるような。『海の鳥・空の魚』

「私、楽しかったからさ。こんなんじゃお釣りが来るくらいだよ」
 信代にとっての「光を放つ一瞬」がいつだったのか、とてもよくわかる台詞だなと思う。治にとってもそれは同じだったはずで、「そのあとの長い長い時間をただただ過ごしていくこともできるような」眩しい光を、あの家族の中に見ていたんだろうなと思う。

 祥太にとってはどうだっただろう。あの家族は、治や信代は、祥太にとって大切な人ではあっても、いつも変わらず光って見える存在ではなかったかもしれない。祥太にとっていつも光って見えていたもの、それは海だ。祥太はいつも海を見ていた。祥太の視線の先にはいつも海が見える。

 祥太が海を見ていたのは、家族で海水浴に行ったあの日だけではない。祥太のお気に入りの物語「スイミー」が初めて登場するのは押し入れの中だ。祥太がヘルメットのライトで照らす「スイミー」のページには大きな魚が泳いでいる様子が見える。一人になりたいときに過ごす廃車の「後部座席の後ろの窓には青いセロハンを貼ったので、太陽の光が差し込むと車内は海の底のような青い光があちこちに反射してきれいだった」。

 釣り具店の大きな水槽ごしに映る祥太は、まるで本当に海の底にいるようだ。疑似餌が浮き沈みする水面の下にたたずむ大きな瞳は、「ぼくが、目になろう。」と言っているようだ。その日の夜、祥太は治に聞くのだ。「ねえ、スイミーって知ってる?」治の返事は祥太が期待していたものとは違っただろう。それでも、あの日、誰もいない夜の駐車場をふざけて追いかけっこしていたとき、二人は海を泳いでいたのだ。

 祥太が「スイミー」を朗読するシーンは、軒先から見上げるように高層のマンションが映し出されるところから始まる。縁側で仰向けに寝転んでいる祥太が見上げている景色なのだろう。こうして見上げていると祥太の暮らす小さな平家もまるで海の底にあるかのようだ。

 スイミーは教えた。けっして、はなればなれにならないこと。みんな、もちばをまもること。
 みんなが、一ぴきの大きな魚みたいにおよげるようになったとき、スイミーは言った。「ぼくが、目になろう。」
 あさのつめたい水の中を、ひるのかがやく光の中を、みんなはおよぎ、大きな魚をおい出した。

 私はこの朗読のシーンが大好きなのだけど、治が「はい上手上手」と適当に拍手して済ましてしまうので、(もっと褒めてあげて!!)といつも思っている。

 草むらで拾ったベルや信代からもらったネクタイピン、ガラクタのようなものを祥太は大切にしていた。大人にとってはガラクタでも、祥太の目には宝物に映った。信代と出かけた日の帰り道に飲んだラムネの瓶に入っていたビー玉も、祥太にとっては宝物だった。祥太は押し入れの中でそのビー玉をライトで照らす。「何が見える?」とりん。「海」と答える祥太の手元で、ビー玉はきらきらと青く光を放つ。

 どんな人にも光を放つ一瞬がある。その一瞬のためだけに、そのあとの長い長い時間をただただ過ごしていくこともできるような。

 祥太にとっていつも光って見えていたもの、それは海だ。祥太はいつも海を見ていた。祥太の視線の先にはいつも海が見える。

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