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厳しい叱責の向こうに

箴言1:24-33 
 
知恵が巷で喜び歌う。広場で声を挙げる。この声の呼びかけは、ここでは懲らしめでした。それを拒む者たちへの叱責の言葉を、今日は聞きます。呼びかけても、あなたがたは拒みます。「あなたがた」と訳してありますが、「おまえたち」の方が内容をよく伝えるような気がします。もちろんこの「知恵」は擬人化されています。神のことです。
 
この知恵は、神のメッセージそのものなのです。神は呼びかけます。手を伸べます。だが、この人間たちは忠告を無視します。「知らぬ振り」とまで述べています。「懲らしめ」に応じないとは、図太いものです。神は災いをもたらし、恐怖を与えます。そうして笑い、嘲るというのです。子どもじみた表現ですが、もはやこれは神の意志ではないのかも。
 
そう、箴言の執筆者のヒューマン性を表すように感じます。恐怖と災い、苦難と困難が、彼らを襲うでしょう。そこでようやく神の方を向き、返答をすることになるでしょうが、時すでに遅し、といったところでしょうか。神を読んでも、神を探し求めても、もはや何の甲斐もないのです。彼らはただ知識を憎み、主を畏れるということがありません。
 
忠告にも応じないし、懲らしめを軽んじました。その姿を客観視することはできません。私たちも、できません。神と自分とのことを、他人事のように見ているからです。その者こそが、神から言われている当事者ではないのでしょうか。自分の思ったとおりだ、世界は自分の思ったとおりになるのだ、とほくそ笑む心を、聖書は暴いているのです。
 
これに気づくことは、自分を殺すことになります。自滅を促すことになります。厳しいことをこれだけ並べられると、まともに受け取ってしまった者の心は怯えきるでしょう。とても耐えられない、と震えます。そこに慰めの言葉が待っています。聞き従う人は安らかに暮らす。災いを恐れず、安心して過ごせる、と。今イエス・キリストの言葉が響きます。

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