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見ることは信じること

近年、ハガルについての考察に出会うことが多くなった。私が男という立場でいるからだろうか、フェミニズム的な観点からこのハガルを取り扱うものに触れると、ひたすら「すみません」という気持ちになってくる。そして、そのような姿が、また「けしからん」と言われることを予想して、辛くなる。
 
ハガルは、自分に語りかけた主の名を、「あなたはエル・ロイです」と呼んだ。「私はここでも、私を見守る方の後ろ姿を見たのでしょうか」と言ったからである。(創世記16:13)
 
「私を見守る方」だと神のことをハガルは呼んだ。それは「エル・ロイ」と言ったことを受けている。それが神の名だという。神から名のるのではなく、人間の側から神に名をつけるような真似をするのは、ここだけではないだろうか。これは新共同訳では「(わたしを顧みられる神)」と括弧づけで、「エル・ロイ」の説明がなされている。
 
つまり、ハガルは神に見守られていたが故に、自分を見守る方、として特徴づけたのである。ほかにいろいろな表現をとれば、「私をご覧になる神」「私を見ていてくださる神」などとなるだろうか。
 
キリスト者は、聖書から「私はあなたと共にいる」という神のメッセージを受けることを旨としている。だが、「私はあなたを見ている」というメッセージも、それに勝るとも劣らぬほどのよい知らせではないだろうか。
 
常に見られている。それは時に恐ろしい。あんなこともこんなことも、全部見られている。骨の髄から心の中まで、すべて知られている。それは恐怖以外の何ものでもないだろう。ダビデは詩編139編で、神が自分を知り尽くしていることを次々と例を挙げて述べ、主から逃れることなどできないことを告白している。神は、闇の中でも自分を見ている、というようにも言っている。
 
しかし、幼子は親の視線をうれしく思うことだろう。危ないよ、と声をかけられても、ちょっと冒険して歩きにくいところを歩いてみることなどをする。もししくじっても、後ろから親が助けてくれる、と考えているのだ。そして大抵は、そのように助けられる。つまり、親が自分を見ている、と信じているのだ。信頼と表現してもよいだろうが、いまはそれを「信じる」という、曖昧な広い言葉で表してみようと思う。
 
神は自分を見ている。これを「見ていてくださる」とするだけで、その「信じる」様子が現れてくることだろう。「見られている」ではなく、「見ていてくださる」である。
 
アブラハムとサラ、そしてイシュマエルとイサク、この四人の織りなす心理的な葛藤劇が、創世記21章を中心に語られた。しかし、祝福の基であるべきイサクの誕生については、聖書記者は淡白に扱っている一方、ハガルの苦悩については実に細やかに描いていることを、説教者は指摘した。もちろんその通りであるのだが、語る上で、こうした点を指摘し、会衆にそのことを意識させ、その心を大切なところに結びつけるというのは、説教の華であるだろうと私は思う。
 
ハッと気づかせる、それで説教に命が吹き込まれる。会衆にとって、これは単なる「よく知った話」なのではない。聖書解説の教科書に書いてあることの棒読みなどではないのである。こうして聞く者の心が、聖書の物語に結わえつけられることになる。
 
それから説教者は、クリスマスの礼拝を経てきたことを振り返る。私も近年強く訴えていることを、非常に印象的に語ってくれた。神がこのように見ていてくださっているのに、私たちは大切な者を、見ていないのではないか。扉を閉じているのではないか。そう、扉というイメージは、教会の扉を意味する。
 
クリスマスの祝会が楽しく開かれる。笑顔一杯で、おふざけも含めた交わりで、クリスマス・パーティをする。教会でも、確かにそれをしているはずである。しかし、その参加者の中にすら、辛い思いを抱えている人がいるだろう。病や生活に不安で一杯の人がいることだろう。その悩みを排除して、「明るく過ごすのが何よりです」という雰囲気しか教会がつくれないとしたら、そうした人々に対して、教会は扉を閉ざしたことになるのだ。
 
さらに、教会の外にいる人についてはどうか。キリスト信仰のない人々は、悩み苦しんで当然なのか。こちらは楽しいよ、そちらは辛いだろうけど、信仰がないから仕方がないね。そんなふうな態度でいるなどとは、教会の中の誰も思うまい。しかし、外から見れば、そのように見られても仕方がないのではないか。否、事実そのような態度が、潜んでいたのではないか、というところにまで踏み込んで省みるべきではないだろうか。
 
説教者は、ハンス・クリスチャン・アンデルセンの童話を語った。これを、貧しい少女を相手にしない社会を描いたように受け取るならば、寓話と呼んでもよいだろう。そして、その社会を、教会というものが演じているとしたら、どうなのだろう、と聞く者に意識させたのであった。
 
そのように「省みる」ことは、神が私たちを「顧みる」ことに、どこかでつながるであろう。新共同訳聖書で「エル・ロイ」について使われていた後者の漢字だと、「顧慮」という語がすぐに思い浮かぶ。「思いやり」というやわらかな言葉に置き換えることも、場合によっては可能であろう。漢字そのものは、「見回す」というようなニュアンスも含むものだろう。
 
では、ヘブライ語ではどうなのだろう。手元で分かる限りで繙くと、「見る」という意味がとにかくメインである。ひたすら「見る」という日本語にして差し支えないような勢いである。また、「理解する」というニュアンスも含む場合があるらしい。英語の「see」には確かにそのような感覚がある。
 
そのような中で「見よ」と聖書が注意を促す時に使われる語だということが、目についた。神はしっかりと、ハガルに注意を向けてくださったのである。神がその意、つまり心を、ハガルに注いだのである。そしてそのハガルへの神の眼差しは、いまここにいる私たち、そして私へ、向けられていないはずがない。
 
説教者は、神学者ボーレンが病の中で溜息に埋もれていたようなエピソードを最後に告げた。そのような弱さも、呻きも、神の霊はご存じであり、そのことにより神に通じているという慰めがあることが、伝わってきた。
 
神がハガルの目を開かれたので、彼女は井戸を見つけた。(創世記21:19)
 
神は、霊的に貧しい私のような者へも、この目を開かせることがおできになる方である。そして、井戸が象徴する命というものを見ることができるようにしてくださる。それを「信じて」、またここから歩き始めることが許されているというわけだ。神はこの礼拝から、その力を注いでくださった。そのことを「信じる」ことで、私は神を礼拝するのである。

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