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私の福音なんだ

テモテ二2:8-13 
 
パウロからテモテへの手紙。いまの研究は、これはその名を借りたもので、パウロの影響の強い弟子や後継者の手によるものだろうと言っています。老いた教会指導者が若き後継者へ忠告するという内容を受け取りたいと思います。つまり一般の信徒のためでなく、教会の責任を担う立場の者、しかも初心者が学ぶための文書だと捉えてみましょうか。
 
もちろん、プロテスタントのように信徒一人ひとりが皆対等な関係の内にあるとする時、誰もがこのメッセージを受け止めても差し支えないはずです。イエス・キリストを思え、というのは、あまりにもベタな命令でありましょうか。でも私たちが常に注目しなければならないものとして、重要な指示であると受け止めたいのです。
 
つまり私たちは、ともすればこの方をすっかり忘れてしまうのです。違いますか。そこへ「私の福音」という言葉がのしかかってきます。この強い自信は、どこから来るのでしょうか。教会が後世に向けて託すメッセージが、「私の福音」なのです。これぞ福音。そう受け取れというわけです。ここに「真実」があるという信条がぶつけられてきます。
 
ここに並ぶ詩のような句は、当時の定まった信仰の文句を引いてきたとよく言われます。でもそうでしょうか。この手紙を出して、ここにパウロの権威を乗せて示すことで、ここに書かれた信仰を定式として徹底させようとしたとは考えられないでしょうか。つまり順序が逆で、この「私の福音」を教会の信仰だと決めようとしたのではないでしょうか。
 
これの保持のためなら鎖につながれてもいい、という勢いで、あらゆる苦難を越えて救いへとつなぐことのできる文面が、こうやってできたのです。ここには、つながれないという自由があります。きっとそう言いたいのです。けれども、実のところ、この信条へとその後の教会の人々は束縛されることになってしまいました。
 
あるいは、そういう意図を以て編集された、というくらいにしておきましょうか。イエスと共に死ぬ、すると共に生きるようになる。耐え忍ぶなら支配できる。パラドキシカルな表現も、信仰上の公式となります。人間はどうせ真実を尽くすことができませんが、神の真実を妨げることはできません。この神の真実は絶対に揺るがない、これが福音です。

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