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神の計画の中の帰還

エレミヤ29:11-14 
 
エレミヤ書の言葉は、どこまでが預言者で、どこからが神そのものなのか分かりません。ここは主そのものであるように感じられますが、主が、イスラエルのための計画を立てているのを見るからです。確かに民はバビロンに捕らえられます。が、70年の時を経て、民は再びこの地へ戻って来る、と言います。それは「恵みの約束」なのです。
 
そしてまた、それは「将来と希望を与える平和の計画」でもあると言います。エレミヤは、バビロンへ渡る一行には加わりませんでした。反対勢力の手により、引戻されてエジプトへ逃れる集団の中に混じります。ここでは、まだエルサレムにいる頃に、すぐさまバビロンへ向けてこのメッセージを書き送っていたということのようです。
 
民よ、私を呼べ。私を見上げ、私へのみ心を向け、切に祈れ。そうすれば私は、必ずや聞く。私を捜し求めよ。必ず見出すから。私を尋ね求めよ。必ず見出すから。イエスもこの預言を知っていました。だから「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる」(マタイ7:7)と教えたのだと思われます。
 
あの根柢には、神自身を求めよ、という前提があったのです。ここには、バビロン捕囚という具体的な事件が置かれていますが、「あらゆる国々に、またあらゆる場所に追いやった」とあるように、必ずしもバビロンに限定した放逐のみを意味してはいないと思います。ディアスポラとして世界へ散りゆく民の姿を予見しているかのようです。
 
あるいは既に、ユダヤ人は各地へ散っていたしょう。しかし、そこから集めるのは、70年後の解放のみならず、その後の終末の出来事をも隠し持つ示唆であるように、今の私たちが見てもよいのではないでしょうか。元の場所に帰らせるとは、さらに優れた天の都エルサレムがあって、私たちにそこを帰るべき場所とすることを言っているのだ、と。

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