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量か質かの伝道

日本のクリスチャンは、人口の1%。もうずいぶん前からそれが常識となっている。いったいいつからなのだろう。人口比で捉えると、『キリスト教年鑑』には、戦後からじわじわと増えて、半世紀前辺りからいまに続くまでずっと横ばいのような恰好になっている。そして0.8%程度で推移しており、1%という数には達していない。凡そ統計のとり方そのものが難しいのであるが、私もたぶん1%というのは多すぎるだろうと予感している。
 
そもそも、何を以てクリスチャンとカウントするのか、曖昧である。実際に教会の礼拝に毎週加わっている人、などとすると激減するに違いない。教会に名簿があるということか。しかし名前だけの幽霊会員も少なくないだろう。そもそも、神社が氏子などと言い始めると、地域全員を数える可能性もあるし、寺院もどうなのか知れない。宗教人口を合計すると日本の人口を遙かに超える、などという話もある。統計は難しい。
 
しかしともかく、クリスチャンは少ない。それで、これではいけない、と日本宣教を考える人がいる。ある人は、10%という具体的な数字を挙げていた。10%のクリスチャン人口があれば、政治的な声も実現につながりやすくなる、との試算である。
 
いま、一部のクリスチャンが、憲法の改悪を阻止しようと声を挙げているし、右傾化に対して抵抗の意見を掲げている。その論者は、そちらの方向性をもっており、その動きを止めるために10%の力が欲しい、ということのようである。
 
クリスチャンがたとえ10%いても、その皆が政治的にそのような意見をもつかどうかは知れない。だが、少なくとも1%の10倍の人数がクリスチャンであれば、それなりに響いて社会に影響を与える意見となってゆくことだろう。
 
ここで、考えたいことが現れる。クリスチャンには、そのような「量」が必要かどうか、いうことである。人数を増やすことが伝道の目的であってよいのか、という疑問があって然るべきではないか、というのだ。信仰について実はよく分からないままに、頭数が増えることが、教会にとってよいことなのかどうか、疑問を挟むというわけである。
 
だが、先の論者は言う。日本では明治以降、その路線でキリスト教が社会に入ってきたのであり、そこには大きな欠陥がある、と。つまり、初期の武士やその後の知識層に受け容れられたプロテスタント信仰は、一部のエリート層を取り込むことには成功したのだろうが、庶民の心を捉えることができなかったのではないか、という疑問である。中には、「量より質だ」という考えを掲げて、質を上げた教会形成でよかったのだ、と開き直る思想もあったらしい。そこで、本当に世の中を変えるのは、庶民ではないか、と問うべきだというのである。
 
言葉は乱暴だが、「量か質か」というモチーフで問うことは、確かにひとつの課題である。どちらも必要で、どちらもよくなる、というふうに見るのが最も健全であるのかもしれないが、実際、量だけが増えて質が下がるのをよくない、と考える人もいれば、この人のように、質を気にして量は気にしないというのは間違っている、と考える人もいることになる。
 
私はどうだろう。どちらの考えも理解できる。どちらかに賛同しなければならない、とされたら、果たしてどちらに手を挙げることになるのだろう。社会を変えるということが、キリスト者の使命であるのかどうか、という点にも疑問符を打つ必要はあるだろうと思う。少なくとも新約聖書は、社会を変えようというような考え方は見当たらない。当時はそれどころではなかったのだろう。キリスト教の中にあるルサンチマンを指摘したニーチェに倣うとまでは言わないが、社会のマイナーであり、片隅で反体制的に細々と世の終わりを待つようなことこそが信仰である、というように考えていたようにしか見えないのである。
 
また、本質的に、クリスチャンが世の中のメジャーになってゆくことが目標なのかどうか、という疑念もある。これも新約聖書の姿勢ではあるが、民主主義的な多数派をクリスチャンが占めるようになることを狙うべきかどうか、というと、決してそういうものではないように見える。だがまた、福音を世界中に伝えよ、という宣教命令もまた受けている。その上で、イエス自身も、あれほどの癒やしや奇蹟を示しても、自分の故郷ひとつ伝道できたわけではないし、各地で命を狙われたり、追い出されたりもしている。イエス自身が大伝道者のように、派手なパフォーマンスで宣教を飾ったわけではなかった。癒やしを施したり食べ物を与えたりすることはパフォーマンスだ、と言われる可能性はあるとは思うが。
 
救われる人は少ない。イエスの見解の中に、そういう部分もある。そして、その少ない信者がまた、皆信仰の点で確かであるかどうか、と問われれば、これまた危うい。もちろんこのことは、私の信仰が健全で確かだ、真理だ、というようなことが言いたいという意味ではない。決めるのは神である。裁くのは神である。だが、神学に至らぬ哲学や心理学的なレベルでも、ひたすら自己義認に邁進するような一部の「信者」がいることを、どうしても否定することはできない。それは、信仰という段階の話ではない。人間として適切な判断をしていないということであり、具合の悪いことに、「信仰」の名によって、自分の判断は正しいのだ、と自己義認してしまうことが実際に見られるのであって、これが怖いと思うのだ。
 
怖いという予感では終わらない。キリスト教の歴史を見れば、それはずっと繰り返されてきたということが分かるのではないだろうか。神の名を所有しているという自負の故に、いかに文明を滅ぼし、文化を破壊し、互いに殺し合い、虐殺を繰り返してきたか、本当に省みているのかどうかすら、怪しい。真剣に悔い改めたのかどうか、分からないと思う。それは、今もなお、キリスト教や神の名のもとに、同様のことが続いているようにしか見えないからである。
 
大きな国家や政治のレベルでもそうであるし、小さな隣人レベルでも、そのように私には見える。教会という組織の中でもそうである、と言わざるを得ないところが悲しいが、事実である。
 
結局、「量」と「質」とを対立させる必要はない、というのが私の捉え方だ。そのどちらかを選択するような問題設定自体が、おかしいと思うのだ。いかに少ない量であっても、質はよいとは言えない。ということは逆に、多い量の良質さがありえないわけでもない、という希望ももてるのではないか、とも思う。それは楽観できるものではないが、懐いてはならない希望でもないだろう。十分警戒しながら、そして自分自身に常に目を配りながら、自分の外から、あるいは時に内から、聞こえる声に耳を傾けていたいと願っている。

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