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このお方こそ (ヨハネ一4:7-12, 雅歌8:6-7)

◆イエスが中心

今日は、2023年のちょうど真ん中の日です。2月の日数が少ないので、閏年を除いて、7月2日がちょうど一年の中央になります。キリスト教の中心は、何でしょう。いろいろな理解があろうかと思いますが、やっぱりキリストだろうと思います。イエスがキリストである、と信じる人が、キリスト者です。そこで、イエスとはどんな方であるのか、受け止めたいと願います。無理を承知で、いまここでできるだけのことをしてみましょう。
 
掲げた聖書の言葉は、全体をまとめたような意味です。いまからお話しするのは、福音書の中にある三つの場面になります。イエスと弟子たちの間に起こった出来事の中の、印象的な場面を取り上げます。その都度お開きすることは煩瑣になりますので控えますが、可能であれば、またご自宅ででもお読み戴ければ幸いです。
 
イエスの生涯とくれば、私たちはまずクリスマスが頭に浮かぶかと思います。それはとてもロマンチックな物語のようにもイメージできますが、ここでは取り上げません。伝説のように、深い意味がこめられたものとして味わい深いものですが、それよりもイエスと人との関係が直接描かれた場面に注目したいと考えるからです。また、イエスは神の教えを告げ、人々の病を癒やす旅を続けました。それはとても大切な出来事ですが、これに触れることも、ここでは遠慮致します。
 
パウロは、このイエスの伝道の旅については殆ど知らなかったと見られています。そのため、新約聖書でいちばん多くの手紙を執筆しているパウロの知らせる福音は、イエスの旅の内容ではなくて、その十字架の死と復活に大きく偏っていると言われます。そして新約聖書の研究は、このパウロの方によく目が奪われているように考えられています。イエスの意義はそれだけではない、として、教えや癒やしにもっと注目すべきだ、という意見も出てくるわけです。
 
パウロに引き寄せられたように見えるかもしれませんが、今日は、福音書に共通して多くのウェイトを占める、イエスの逮捕以後に焦点を当てることにします。私たちも、できる限り、それらの場面を体験したいと思います。そして、ルカと呼ばれる人物の手によると見られる二つの書、「ルカによる福音書」と「使徒言行録」を用いることとします。このとき、「愛」という言葉を、私は殊更に持ち出すことはしませんが、ずっとその底流に「愛」があるということを、心に留めておいてくだされば幸いです。
 

◆自分を信じることの愚かさ

三つの場面のうち最初の場面はここです。イエスは、自分が十字架に架けられて死ぬことと、しかしその後復活することとを、弟子たちに予告はました。旅の後半だったかもしれませんが、何度かに分けて口にしました。弟子たちはもちろん、そのときにその意味を解しません。また、せっかく従っているこの先生が、無惨にも殺されるなどという、私たちの言葉で言えば「縁起でもない」ことを言うことには、困ったことでしょう。弟子たちの筆頭のペトロも、そんなことを聞くのが嫌になったのではないかと思われます。ルカによる福音書の22章です。
 
33:シモンは言った。「主よ、ご一緒になら、牢であろうと死であろうと覚悟しております。」
34:イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、今日、鶏が鳴くまでに、あなたは三度、私を知らないと言うだろう。」
 
イエスの死と復活の予告は、一度目なら何かの聞き違いか、冗談だと思われたかもしれません。けれども何度も言われると、イエスが真面目に言っているのだと思わざるをえなくなります。ペトロも「まさか」と思っていたことでしょう。しかしこの先生についていくと心に決めたペトロです。また、実際ユダヤ教の権力側に立つ人々から、自分たちが狙われていることは肌で感じていたはずです。捕まって牢に入れられるかもしれないという空気が流れていたのでしょう。先生について行きますとも、とペトロが勇んで口にします。が、イエスは、今日おまえは三度、私のことなど知らない、と否定することになるよ、と予言します。しかも、それは鶏が鳴くまでにだ、と。
 
間もなくイエスは逮捕されます。弟子たちは逃げました。ただ、ペトロはやはりどこか勇敢なところがあります。こっそりと、裁判を見守ろうとして、裁判のある屋敷に忍び込みます。人混みに紛れていれば、騒がれることもないと踏んだのです。中庭には、群衆がいました。
 
と、群衆の中の者が、ペトロの顔をまじまじと見ます。「おまえは、あのイエスの仲間にいたんじゃないか」などと言われました。ペトロは「違う」と否定します。すると別の人が同じようにペトロに迫りますが、またも否認します。そんなことが三度も続きました。そう、イエスが予言した、正にその「三度」なのでした。
 
そのとき、鶏が声を挙げます。日本語だったら、「コケコッコー」でしょうか。鶏が鳴くまでに三度否定する――その通りになりました。ペトロは、否定しているときには、イエスの言葉を思い出すまでもなく、必死でしたが、次の情景の中で、ペトロの心は一度冷静になり、そして熱くなるのでした。
 
61:主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度、私を知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。
62:そして外に出て、激しく泣いた。
 
主の眼差しがありました。ペトロはその視線に刺されるような思いがしたのだと思います。痛い視線です。ペトロと視線が合ったのだと思います。ここで思い出して、一瞬顔から血の気が引いたことでしょう。それから、熱い涙が溢れてきます。もう見ていられなくて、また群衆の中で騒ぐわけにもいかなくて、流れる涙を隠しながら外に出ます。誰にも見つからないところまで来ると、激しく泣くのでした。
 
自分に対する悔しさは、もちろんありました。けれども、この後、先生が言っていたとおりに、殺されることになるのだ……ペトロはきっとそこまで思ったことでしょう。自分が三度主を否むことまで言い当てたのですから、先生の言葉は本当になる、と。
 
思い込んだら何でも口にして、突き進むタイプのようにペトロという人物は福音書で描かれていました。できます・やります、と直情的に宣言する。その場で威勢のいいことが言えるのです。それは良い面でもあると思います。けれども、いざ事が過ぎた後に、ようやく悲しみを覚えます。それは何も、ペトロだけではないように思うのです。
 

◆自分の罪を知るということ

次の場面を垣間見ます。ルカが描いた、十字架の上のイエスの姿です。すでにイエスは十字架に架けられました。この死刑は、即死するものではありません。じわじわと、なぶられるように死んでいく死刑台です。いまそのイエスを見ているのは、ペトロではなく、イエスの隣で同時に十字架に架けられた別の囚人です。ローマ市民は基本的に、世にも残酷なこの刑には処せられないことになっていました。十字架は、最も残酷で恥となる死刑です。磔であり、晒し者です。国家反逆のような重罪に適用されたと言われています。イエスも、結果的にその扱いを受けました。
 
イエスが十字架に架けられた、という点は、聖書にあまり興味がない方も、ご存じだろうかと思います。教会にはたいてい、十字架がシンボルとして掲げられています。アクセサリーの一種だという捉え方をしている人もいるかもしれませんが、あれは死刑台です。しかも、残酷な死刑台です。苦痛は限りないのに、すぐには死ねず、その苦痛が長く続くと言われています。
 
しかしイエスは、ただ独りで十字架に架けられたのではありませんでした。四つの福音書は、どれも十字架が複数であったと伝えています。ルカは他に2本立っており、二人の罪人が同時に死刑に処せられたと描いています。しかもルカは、その二人に、それぞれ個性が付せられました。
 
39:はりつけにされた犯罪人の一人が、イエスを罵った。「お前はメシアではないか。自分と我々を救ってみろ。」
40:すると、もう一人のほうがたしなめた。「お前は神を恐れないのか。同じ刑罰を受けているのに。
41:我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない。」
 
ここは、六週間前に、「自分を救え」というテーマのときに、私が取り上げた箇所です。覚えておいでの方もいることでしょう。今日はまた少し角度を変えて、あのときとは別の言葉に目を向けることにします。「自分も同じ刑罰を受けているのだ」というところです。自分の悪をしっかり認識している言葉です。
 
私たちは、なかなかそうはいかないのです。私たちはたいてい、自分のことなど棚に上げて、他人を非難ばかりする者です。でもこのイエスの隣の死刑囚は、「自分は自分のしたことの報いを受けている。だがこの方は悪いことをしていない」と言いました。どうしてイエスが、悪いことをしていない、と知っていたのでしょう。私は気になります。かねてからイエスのことを知っていたのでしょうか。人々の噂を聞いて、この人は立派な人だ、と信じていたのでしょうか。どこかで出会っていて、癒やされるか、パンを分けてもらうか、そうした経験があったのでしょうか。謎は尽きません。
 
「自分は自分のしたことの報いを受けている」という自覚も気になります。自分の悪を認識するということができているというばかりではありません。先に申しましたように、十字架は重罪にしか適用されません。しかもローマ市民だと普通なかったと言われます。基本的に「国家反逆罪」とされた者を見せしめにするためでした。この男は、それをしたということを自覚している、ということになります。ならば、確信犯である可能性があります。「義賊」という言葉がありますが、何かしら人のためにローマ帝国に刃向かったが故のこの刑となった、と考えることも可能です。
 
イエスを彼がどう捉えていたか分かりませんが、何らかの形でイエスを信頼していたこと、自分を悪の当事者と自覚していたこと、しかしその悪は、自分の欲望のためのものというよりは、ローマ帝国に対する抵抗のような大義名分のあるものであったこと、そのようなことが、これらの言葉から想像できるのではないか、と私が思ったことを、お伝えしておくことにします。私たちに引き寄せて見るならば、自分が悪をなしたという意識の有無について、少しばかり省みることができれば、と思います。
 

◆復活のイエスを見る

最後の場面は、復活を描くところです。ただ、復活の記事はいろいろなものがあります。十字架が、細部は異なれど、おおよそのストーリーがブレないのに対して、復活のイエスの出現は、福音書により実に様々です。だから記事が信用ならない、などと早合点する人もいますが、復活のイエスに出会う一人ひとりの経験というものを考えると、もっといろいろな証言があってもよいように思えます。イエスを信じる人の数だけ、復活の場面があるのかもしれません。
 
ここでは復活についてのどれかの記事だけに注目することは止めておきます。十字架から三日目の朝に蘇ったことは共通しますが、記事は様々あるので、その少し後のステファノという人物に光を当てることにします。
 
ステファノは、初期の教会の役員でした。同じユダヤ人の中でも、ヘブライ語文化の人々と、ギリシア語文化の人々とがいて、不具合が生じていたようです。そこでギリシア語系の人の7人に教会の実務を任せるようにしています。そのうちの一人がステファノでした。が、弁も立ったようで、その議論に歯が立たなかった者たちが、ステファノが「モーセと神」を冒涜したと訴えます。恐らく、律法がすべてではなく、キリストがその律法を超えた救いをもたらした、というようなことを巧く語ったために、律法の代名詞である「モーセ」を、そしてモーセに律法を授けた「神」を冒涜した、との重罪に仕立て上げられてしまったのではないか、と思います。
 
謂れのない訴えですが、ステファノは堂々といつもの話を語ります。聖書の歴史からイエス・キリストまでを語ったことが、ずいぶんと長く使徒言行録には掲載されています。これは、教会のキリスト解釈を説明し、後に読む教会の者が、適切に教義を理解できるように配慮した故であろうとも思われます。
 
ステファノの話に、聞いていたユダヤ人たちは怒り心頭に発しましたが、次のステファノの言葉で、群衆は暴力へとなだれ込みます。使徒言行録の7章です。
 
55:ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、
56:「ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。
 
ステファノは復活のイエスをこのとき見ていたのです。それも、ただ復活して地上で最後の教えを語っていたイエスではなくて、天に挙げられ、やがて再び世の終わりに地上に姿を現すと言われたイエスの姿を、幻の中に見ていたわけです。
 
ユダヤ人たちはこのような幻を、神への最大の冒涜だと興奮し、石を投げ、ステファノを殺します。ステファノは、教会での「最初の殉教者」だと言われました。この後、パウロがこの場面に関与していたことが触れられて、後の伝道者パウロが初登場するのですが、もしかするとステファノの殉教は、パウロの回心にも、何らかの影響を与えているかもしれません。
 
キリストは天に昇り、天使たち、および、もろもろの権威や力を従えて、神の右におられます。(ペトロ一3:22)
 
かなり後に、こうした教えを新約聖書は教会の人々にもたらしていますが、ステファノが見ていたのも、このような姿だったのでしょうか。
 

◆あなたは証人となる

私はイエス・キリストと出会ったとき、私に現れたその姿を見ました。あなたには、あなたに現れたイエスの姿が記憶にあるだろうと思います。心に食い込む言葉を語っているイエスでしょうか。手を置いて癒やしてくださったイエスの姿でしょうか。それでもやはり十字架を省くことはできないでしょう。それと共に自分も死ぬという体験もあったでしょうか。ただ、それで死ぬだけではないはずです。そこからどう立ち上がるか、起き上がるか、そこが、その人によって大きく異なるところだろうと思います。
 
病気から解放された人もいるでしょう。生活の困窮から逃れることができたかもしれません。悩みで塞がっていた心が解放されたときに、復活のイエスと出会った方もいるでしょう。苦悩が消えたでしょうか。憎んでいた人を赦すことができたときに、自由を知った人もいるでしょう。自分のコンプレックスが気にならなくなった、そんな人もいるかと思います。私のように、愛の欠落した自分に絶望していたところへ、真実の愛が示されたことで立ち上がったという人が、ほかにもいるのではないでしょうか。
 
なかなかそういう体験に恵まれたという人ばかりではないかもしれません。大切なのは、自身の体験そのものではありません。神の言葉が与えられることです。そしてその神の言葉に縋ることです。神がこれを約束してくださった、そう信じることができたら、立ち上がり、歩き出すことができるのだと思います。ただ気が晴れないとか、落ちこんた気がするとかいう中でも、神の言葉が与えられ、それを抱きしめると、それまでとは全く違う景色が見えてくるはずです。
 
派手な体験でなかったとしても、いま私が断片的に告げていることに肯くところがある方は、それで十分だと思います。神の言葉に出会った空です。そのとき、あなたは「証人」となります。神は真実だと自分の口で言うことができるからです。神の業を肯定できる人、福音の「証人」であるのです。使徒言行録2章のペトロは、聖霊が降ったその説教の中で、こう言っています。
 
32:神はこのイエスを復活させられたのです。私たちは皆、そのことの証人です。
33:それで、イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました。あなたがたは、今このことを見聞きしているのです。
 

◆出会ったのだから

時折、亡くなった人が再び現れてしばし再会を喜ぶ、といった物語や映画がヒットします。そうだったらいい、との願望があるから、多くの人々が物語に共感するのでしょう。大きな災害で家族を喪った人からも、また会いたいという言葉が零れてくることがあります。突然の出来事で命を奪われたとなると、お別れを告げることもなかったことになり、無念な思いがずっと残るのではないかと思います。
 
亡くなった人との再会は、いわば空想物語です。物語の中に、現実を求めることは難しいだろうと思います。では、このイエスの場合はどうでしょうか。やはり空想物語なのでしょうか。それにしては、復活のイエスと会った、という人がいくらでもいる、というのはどういうことでしょう。
 
死んだ人の姿はもう見えません。しかし、イエスの姿をステファノは見ました。私たちもまた、それを見たという証言をすることがあります。それで、イエスは復活した、ということの証人となります。イエスは死んだままでいるわけではないのです。十字架に架かって死を味わわれたのですが、蘇りました。イエスは復活し、その姿で私たちと出会ってくださいます。私は、そのイエスと出会ったのです。
 
そのように証言している人が、世界には数え切れないほどいます。本当に体験していないことは、証言できないものです。行ったことがない場所に、行ったことがあるんだ、と話すような虚言癖のある人もいますが、その話にはどうしても無理がつきまとうものです。誰それに会ったことがないのに、出会ったなどと言うのも、追及すれば無理が現れます。どうしてもそこには演技が伴います。言う方は、辻褄を合わせなければと気を張っていなければなりません。
 
けれども、事実体験したことの証言は強いものです。何をどう語ろうと、齟齬は起こりません。つくりごとには不自然さが伴いますが、確かな経験は、たとえ表現がちょこちょこ変わろうとも、本質的にはちゃんと筋の通った証言となるものです。
 
人間や、人間の知恵を頼りにしても、揺らぐでしょう。人間に救いを求めても、無理というものです。そこに筋を通そうとしても、破綻してしまいます。けれども、イエスに求めるならば、破綻は起こりません。聖書の中には、まだまだ人の知る由もない鉱脈がどんと構えていることでしょう。揺り動かされることのない基盤があるのです。その岩の上に立てば、足元が崩れることはありません。
 
イエスに出会った人は、実に素直に、当たり前と思うことをただ話しているに過ぎませんが、その自然な語りの中に、真実があります。イエス・キリストが真実なお方だからです。この語りこそが、証言です。その人は、聖霊を受けた人です。そして、キリストの証人となります。
 
ただ、あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレム、ユダヤとサマリアの全土、さらに地の果てまで、私の証人となる。(使徒1:8)
 
驚くべきことですが、聖霊が降ることや、キリストに出会うということは、過ぎ去った出来事ではなく、いまここでも起こることです。過去のあの記事と同じように、しかしまたそれぞれの人にそれぞれ新しく、その経験がもたらされます。イエスが救い主、私を救う方です。私の望みがそこにあります。私には、そのことで命が与えられたのです。私は、生きるようになったのです。
 
イエス・キリストが、私を愛してくださったからです。神の愛を、知ることができたからです。
 

◆このお方こそ

神は独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、私たちが生きるようになるためです。ここに、神の愛が私たちの内に現されました。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めの献げ物として御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。(ヨハネの手紙一4:9-10)
 
この聖書の言葉をベースに生まれた賛美の詩があります。もうずいぶん昔の話ですが、私の中から生まれた賛美の詩です。これを最後に献げます。今日のメッセージは、この賛美をすべて辿るように、お話ししてきました。
 
 
    このお方こそ
 
  かなしみはいつも 過ぎたあとに知る
  あなたがあれほど 繰り返したのに
 
  「したがう」といきまいた わたしを振り返り
  ほふられる子羊のように あなたがゆく
 
  このお方には 嘘がない
  このお方には 嘘がない
  このお方には 嘘がない
  このお方には 愛がある
 
 
  死にあたる罪を 犯してきたから
  わたしの報いは これがふさわしい
 
  三本の十字架が 丘に並んで立つ
  その上であなたはなお ひとを赦したもう
 
  このお方には 罪がない
  このお方には 罪がない
  このお方には 罪がない
  このお方には 愛がある
 
 
  まだ暗い朝に 亡骸は見えず
  よみがえりの主に わたしは出会った
 
  御言葉の約束が ここになしとげられ
  主の恵み 救いの手は 今も変わりがない
 
  わたしは見た この方が 神の御座の右にまし
  栄光の姿をとられ すべてを治めるのを
 
  このお方こそ 救い主
  このお方こそ わが望み
  このお方こそ わがいのち
  このお方こそ わがすべて――

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