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カント生誕300年

イマヌエル・カントは1924年4月22日に生まれたと伝えられている。ケーニヒスベルクの町から出ずして、世界中の情報を得ていた。大学教授としての哲学者の出現は、カントを嚆矢とする、と言ってもよいであろう。論文はラテン語の時代から、じわじわと母国語に移る時期であったが、哲学者が専門的になってゆくにはまだ早い時代であった。
 
つまり、カントは当初は自然科学者であったのであり、論理学は当然かもしれないが、自然地理学や人間学が一般的だったのである。地震についての論考は、いまとなってはとても科学的だとは言えないものであるが、神の裁きだとか何か得体の知れない神話的な理由づけしかできなかったような時代に、地質的なメカニズムを考察したその発想が評価されるべきだろう。天体の生成についても同様で、こちらは星雲の生成についての大枠の考え方は、いまも認められていると言ってよいそうである。
 
天の星空と人間の内に置かれた理性との見事さを語る言葉が、墓碑銘に刻まれている。
 
der bestirnte Himmel ueber mir und das moralische Gesetz in mir.(uウムラウトをueと表記)――我が上なる星空と、我が内なる道徳法則
 
この二つに畏敬の念を懐いてやまない、というのである。
 
しかし、人間の認識能力を検討すること(これを「批判」と読んでいる)を以て、「コペルニクス的転回」を哲学史上でなしたことについては、あまりにも偉大な功績を遺したと言わざるを得ない。「カント以前の哲学はすべてカントに流れ込み、カント以後の哲学はカントから流れ出る」というようなことをよく言われるが、決してオーバーなことではない。いまなお、「哲学する」者は、カントとの対話を強いられる場面があるのだ。(この「哲学する」という語は、教育的な基盤の上でカントが使う言葉である。)
 
ただ、こうして確立した西欧的近代的思考が、それでよかったかどうかとなると、省みなければならないはずである。いまなお世界はその原理で動いているが、どうやら新しい革袋が必要なようである。いまも西洋思想だけがすべてであるかのように世界を動かしているように見えるが、その思い込みから抜け出なければならないであろう。
 
宗教についてカントは、キリスト教組織の硬直した姿勢に対して闘い続けた。プロイセン王には最終的には逆らえなかったが、当時の締め付けのある中で、なかなか抵抗した方ではないだろうか。その聖書解釈には賛同できないが、人間の根本的な四つの問いをはじめ、「考える」ことの枠組みを提供してくれた、カントの功績はいまも偉大である。

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