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加わるために加わったもの

使徒2:37-42 
 
このまま受け取るならば、ずいぶんと大袈裟です。人々の中に、回心した人がいたとしてももちろんおかしくはないけれど、三千人とは多すぎます。これは、イエスがパンや魚を分け与えたことを踏まえていると私は思います。各国語の言語が、炎のような舌によって生み出されました。舌は、まず弟子たちの中に分かれて入ったのでした。
 
その意味は、ダビデの詩で統一されています。ダビデの子孫がメシアであり、イエスです。この異様なメッセージが瞬く間に信じられた、というこの物語は、なんだか考えにくいものです。しかし、こうした点がやがて教会で受け容れられて、教団がつくられていったのです。この仲間に入るには、どうすればよいのでしょうか。
 
これに対する教会側の答えが用意されていて、ペトロが答えます。悔い改めよ。そう、イエスが告げたこの命令を、ペトロの口を通して責めて発することで、教会にもこの権能が継承されるのです。そしてパウロの切り拓いた異邦人教会へのメッセージと共に、これがすべてのキリスト者に伝えられていきます。いまここにいる私たちへまでも。
 
その福音は、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦されたという救いを与えられることになるのだということです。この日の出来事により、聖霊が及ぶ道がつくられて、ここにまで及びました。しかし、そもそもイエスの弟子たちは、洗礼を受けていたのでしょうか。まさか、この聖霊降臨の日に洗礼を受けたわけではないでしょうに。
 
この道は異邦人世界を貫きます。「誰にでも」この約束は与えられているのだからです。時代は常に邪悪です。しかし教会につながる者はそれに染まりません。聖書に従い、交わり、パンを裂き、共に食し、祈っていた使徒たちの教えというのは、この新約聖書の伝える福音であるはずです。人が教会に加わるために、教会に加わった恵みがこれでした。

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