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みこころの天に成るごとく地にも成させたまえ (マタイ6:10)

◆マタイ伝を基準に

 御心が行われますように
 天におけるように地の上にも。(マタイ6:10)
 
祈りの内容としては三つ目となります。ここで初めて、マタイ独自の祈りが現れます。ルカには、該当する言葉が全くないのです。
 
福音書は、時間差を置いて書かれた、と研究者は見ています。主の祈りは、ルカよりもマタイのほうが明らかに長くなっています。普通、最初にルカの福音書ができて、その後にマタイができた、と理解されています。もし逆に、長いマタイが先にあったとしたら、それをルカが短くすることは、考えにくいからだといいます。しかし、資料をそれぞれに活用した、という捉え方もなされていますし、よく分からない、というのが本当のところです。歴史上のことは、推測と想像以上にはなりにくいのです。
 
教会で伝統的に受け継がれている「主の祈り」は、福音書の中の「主の祈り」をいくらかアレンジしています。しかしそれは、マタイの「主の祈り」を基本としていることは確かです。「主の祈り」を繙いてゆく私たちにとって、やはりいまはマタイのそれのほうを、中心に見てゆくほうが適切であろうと思われます。
 
マタイ伝では、祈りというものがどのように見られているのでしょうか。祈りという点ではルカもなかなか重い気持ちをもっていますが、今日はとにかくマタイを頼りにするよりほかありません。
 
マタイ伝のこの祈りから、私はどのように、祈りというものを受け止めてゆけばよいのでしょうか。それを、理性というよりは、どちらかと言えば霊で捉えていきたい、と願っています。
 

◆御国が来るように

御国が来ますように。マタイ独自の祈りは、直前にこの祈りを置いていました。これについては、前回立ち止まって見つめてきました。神の国が近づいたというのでした。「神の国」は、なんらかの比喩で話すことに徹していたように見えました。
 
「来る」という言葉は、空間的な移動を本来意味します。文字通りだと、私たちがここにいて、そこへ向けて、宇宙船のように「国」が来るように思われます。その「国」というのが、天空の城のような国土を意味するようにしか想像できないとすれば、私たちは、想像力があまりにも貧困であるのかもしれません。
 
「来る」という言葉は、時間的な移動を意味することもあります。「明日が来る」というのがそうです。「主の日が来る」というのもそうでしょう。この「主の祈り」の「御国が来ますように」は、基本的にそのレベルで捉えられるべきことだったと思います。
 
いま私たちは、神の国、すなわち神の支配が実現する時が来ることを願う、と祈ってきました。その時は、イエス・キリストが到来したことにより、「すでに来た」という受け止め方ができました。しかしまた、イエス・キリストが再臨することにより、「いまだ来ていない」という理解も必要だということを理解しました。
 
すると、今週注目している祈り、「御心が行われますように」もまた、「御国が来ますように」と大きく重なってくるように思えてなりません。これが、「神の支配が実現しますように」のように聞こえるからです。それは、「いまだ来ていない」神の支配のことを思い描いていることになるでしょう。すでに来てくださった救い主イエスの出来事というよりは、これから神が本当に全世界の王として君臨することのほうを、願い祈ることであるように思われます。
 

◆祈りと願い

私たちが「祈る」というのが、えてして「願う」ことの意味と同一視されがちであることについても、ここまでで視野に入れてきました。いま「御心が行われますように」との祈りを見るとき、これは「願う」意味なのでしょう。たぶん、そうではないでしょう。私たちが「どうかお願いします」と祈る事柄ではないからです。神がイニシアチブを執るならば、私たちがどう願おうと願わないでいようと、神の意志は実現するでしょう。神の計画は現実のものとなるよりほか、ないでしょう。
 
では私たちは、それを祈る必要がないのでしょうか。しかし、私たちは時折憤ります。悪がまかり通る世の中に、憤ります。戦争が止まないことを、悲しみ、そして憤ります。弱い立場の人が不条理な苦しみを強いられている訴えを聞いて、心動かされ、そして憤ります。
 
何か自分にできないか、と思わされることがあります。何か協力できるように動くこともあります。募金を差し出すこともあるでしょう。署名に参加することもあるでしょう。SNSで意見を述べることも一つの行為であるかもしれません。YouTubeで声を挙げるということもいまはしやすくなりましたが、炎上を恐れて思い切ったことが言えないという声もあります。デモや街頭運動に参加する人もいるでしょうか。一般市民は、国会で説明をするようなことはできないでしょうし、テレビで訴えるということも、まずないでしょう。
 
いえ、いま挙げたようなことを、なにひとつしないでいる場合もあるのではないでしょうか。ただ「気の毒だねぇ」とテレビ画面を見るだけ。何もしないけれど、何も言わないでいては、冷たい人間と評されるかもしれない、くらいの頭は働きます。「誰かが何とかしてくれる」という本音を公言すると、いろいろ言われそうな気もしますから、「大変だよねえ」と、心優しい人同士が、頷き合うという風景も、ありそうです。
 
身体的に、あるいは知的に、障害を負っている人が、世の中で「何かをしている」ように思えない。そのような偏見は、いまもなお見られます。一方的にそう即断して、とんでもない行為に出た事件は、まだ生々しく記憶にありますが、もしかすると、もう風化の一途を辿っているのかもしれません。
 
しかし、知的障害者もまた、キリスト教会で支えられ、また教会を支えている、といようなレポートをしている本もあります(『知的障碍者と教会』フェイス・バウアーズ)。あいにく日本におけるものではありませんが、日本の教会のうち、手話通訳をいつでもできる準備にある教会はほんの一握りですし、点字の聖書すら持ち合わせていない教会も実際あるようです。何かしら障害をもった人を迎える準備は、ハード面もソフト面も、まだまだ頼りない情況です。
 
さて、自分には何もできない、というのは、なにも障害を負った人々とは限りません。お年寄りや病人も、そういうケースがありましょう。その人は、しかし「祈ることはできます」と言ってくださる場合があります。
 
それから、子ども。子どももまた、教会というキリストの体の大切な一部であるとしたら、何をするからしないから、ではなく、ただそこにいるだけでも、教会の力になり得るものと受け止めます。むしろ、子どものようにならなければ神に国に入ることはできないのですから、神の国にとってはホープそのものです。
 
戻りますが、「祈ること」は、教会の大きな力です。「願い」に過ぎないのであれば、願いが叶わなければ、無力さを覚えることになるかもしれません。その上、「神よ、この願いを聞け」というのがもし「祈り」であるとするならば、恐ろしいことです。人間の欲望のために、神を利用とするのです。戦争のときに神に祈ることが、当たり前のように行われてきましたが、私たちはもっとよく考えてみなければなりません。
 
 てるてる坊主 てる坊主 あした天気に しておくれ
 いつかの夢の 空のよに 晴れたら金の 鈴あげよ 
 
 てるてる坊主 てる坊主 あした天気に しておくれ
 私の願を 聞いたなら あまいお酒を たんと飲ましょ
 
生涯にただこの一作しか遺していない浅原六朗さんの「てるてる坊主」です。その3節が、しばしば話題になります。
 
 てるてる坊主 てる坊主 あした天気に しておくれ
 それでも曇って 泣いたなら そなたの首を チョンと切るぞ
 
古来人は、戦争に勝つように、と神に祈り、負けたならば、その神を捨てることがありました。役立たない神は要らない、と。その意味で、敗れても敗れても、悪いのは神ではなく、イスラエルの民の不信仰の故です、と絶えず省みるイスラエルの祈りは、やはり普通の偶像信仰とは訳が違うように思います。
 
 御心が行われますように
 天におけるように地の上にも。(マタイ6:10)
 
神がこの地上にも神の業を現してほしい。これは一種の「願い」です。でも、ただの「願い」ではありません。信仰による「願い」です。神が専ら主体であり続けるのですが、その神の業の中に、自分も参加させて戴きたい、という願いを含んだ「祈り」であるように感じます。
 

◆ゲッセマネの祈り

イエス・キリストは、心寂しい思いに迫られたとき、ひっそりと独りで人の喧噪を避け、独り祈ることがよくありました。福音書はそう描いています。しかし特に、その祈りの内容と共に、場面が印象的であるのは、いわゆる「ゲッセマネの祈り」です。
 
それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、「私が向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。ペトロとゼベダイの子二人とを伴われたが、苦しみ悩み始められた。(マタイ26:36-37)
 
弟子たちは結局眠りこけてしまい、共に目を覚ましていることはできなかったのか、と叱責されるのですが、誰がどのように聞いたのか、イエスの祈りが収録されています。
 
少し先に進んでうつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください。しかし、私の望むようにではなく、御心のままに。」(マタイ26:39)
 
自分が願うようにではなく。そのように言っています。「御心が行われますように」という主の祈りを、まるでイエス自身がここで実践しているかのようです。この祈りが終わったとき、それはイエスの逮捕の時でした。そして夜っぴての裁判に引きずり回され、ついに人目に晒された惨めな状態で、最高度の苦痛に苛まれつつ、十字架の上で絶命するのでした。
 
イエスはここで、命懸けの祈りを祈りました。ここでは「苦しみ悩み始め」たというような訳語にされていますが、他の様々な訳では、「悲しみもだえ」た、「悲しみのあまり、死ぬほど」だ、というような工夫がなされています。「急に悲しみおののき」という言葉も見られます。原語がこのマタイとは異なりますが、ルカの同じ場面では、「もだえながら、死に物狂いに」という訳語さえあります。このルカにおいては、新約聖書の中で、ただここにしか使われていない珍しい語で、それが表されているのです。
 
イエスは、二度、眠っていた弟子たちのところに戻りました。それで都合三度祈りの時を過ごしたようにマタイ伝は記しています。そして最後に弟子たちを起こした様子の中で、弟子たちに、殆ど最後の言葉として次のように言います。
 
立て、行こう。見よ、私を裏切る者が近づいて来た。(マタイ26:46)
 
イエスは立ち上がったのでした。聖書で「立ち上がる」というのは、そこから何かしら行動に出ることを暗示する表現だと言われています。ただ起立したのではありません。
 
また、イエスは祈りについて教えるとき、ずいぶんと厳しいことを命じたようにも記憶しています。マタイ伝の5章です。
 
44:しかし、私は言っておく。敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。
45:天におられるあなたがたの父の子となるためである。父は、悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである。
46:自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。
47:あなたがたが自分のきょうだいにだけ挨拶したところで、どれだけ優れたことをしたことになろうか。異邦人でも、同じことをしているではないか。
48:だから、あなたがたは、天の父が完全であられるように、完全な者となりなさい。
 
「敵を愛せ」などという、およそ非現実的な命令と並んで、「迫害する者のために祈れ」と命じたのです。しかもそれは、「完全な者となる」ためだ、と。
 
この命令に、私たちは「はい」と言えるでしょうか。私はたぶん言えません。言えないからこそ、私たちは祈るように、と促されたのです。「御心が行われますように」と。
 
あなたの重荷を主に委ねよ。/この方はあなたを支え/正しき人を揺るがせることはとこしえにない。(詩編55:23)
 
イエスが、血を流すほどにまで祈ったゲッセマネの祈りの着地点は、この近くだったのかもしれません。
 

◆天と地

 御心が行われますように
 天におけるように地の上にも。(マタイ6:10)
 
もうひとつ、この御心への祈りは、「天におけるように地の上にも」という言葉をも含んでいました。
 
「天にまします……」のときに、「天」については触れました。実際原語には「まします」の部分は見当たらず、「天における」という書き方がなされていることを知りました。そこは、「神の支配の行き届くところ」を視野に置きたいという気持ちで受け止めました。「天におけるように」ということは、神の国が常態であるように、という見通しをもった言葉であるように窺えます。いわば当たり前のことです。天では神の御心が実現しているのであり、神の出来事だけがあるところが、「天」と称されているわけです。
 
だから、ここではむしろ、それと対照的に初めて現れた「地の上にも」というところに注目しなければなりません。一体「地」とは何なのでしょうか。
 
イスラエルで、「地の民」と呼ばれた人々、あるいは階級がありました。元々はユダの土地をもつ者のことでしたが、バビロン捕囚の後には、この呼び方は蔑称に変わります。もはや純系のユダヤ人ではなくなった者、つまり異教徒と婚姻関係を結んだ者を呼ぶようになりました。それが、口伝律法(タルムード)に至ると、律法を守れない人々のことを指すようになり、さらには人間として扱うわけにはゆかない愚か者のためにも当てはめるようになりました。
 
明らかに、それは「神の民」の内に数えられてはならない類いの人間です。「神」をマタイが特に「天」と言い換えていることを思い起こすと、「天の民」に対するのが「地の民」ということになります。もちろん、このような蔑称は、エリート側からの一方的な呼び方です。イエスが批判したことで明らかになったように、ファリサイ派の人々や律法学者、祭司などの面々が、自分たちの優越感を根拠にして、律法を知らない人々を見下していたのです。
 
「主の祈り」で「天におけるように地の上にも」神の御心が行われるようにと祈ったとき、もちろんただの人間世界のことを「地の上」が指しているのは間違いないと思いますが、私は少しばかり違うものが重なって見えるのを禁じ得ませんでした。それは、「地の民」とは、そのように見下された者たちであり、律法を守れない人々、小さくされた者たちであった、という点です。
 
イエスが福音を宣べ伝え、癒やしの手を伸ばしたのは、そのような人々でした。自分は教会の中で偉いんだぞ。教会には敬虔なクリスチャンが集まっていて、世の人々と違って神を知っているんだぞ。そのような心を、潜在的にでも有っているような人々ではありません。我が身の惨めさ、罪深さを痛感し、神の前に頭を垂れるしかなかった人々こそ、イエスの前に救われる者たちであったのです。
 
そこに、こう祈れと投下されます。神の御心が実現しますように。もしこの祈りを「地の民」に限定すると、きっと歪んだものになってしまうことでしょう。でも、そのような光を当てて読んでみることも、試しにしてみたらどうか、と私は提言してみたかったのです。
 
対して、ローマ皇帝は、自らを「神の子」と称し、またそう呼ばせていたといいます。上に立つ者は選ばれた人間であり、下々の者とは決定的に違います。それが、日本でも貴族から見たところの、当然の人間観でした。ローマ皇帝こそが、当時の世における「神の子」だったのです。新約聖書は、それに対して徹底的に「ノー」を突きつけます。イエスを「神の子」と呼ぶことは、この地上の権力に対する、徹底的な抵抗であるのかもしれません。
 
イエスは、この世の人間観を揺さぶり、退けました。神は神であり、人間は人間です。生身の人間に過ぎない「神の子」など、いないのです。神と人間との間に存在する者があるとすれば、それは皇帝でもないし、宗教者でもありません。あるとすれば、それはただイエス・キリストだけだ、というのが新約聖書の主張です。
 

◆御心

ここまで、周知のように扱ってきましたが、実は「御心」というところにも、目を落とさなければなりません。「心」という日本語はとても便利なもので、たくさんの心的機能を指すことができます。ギリシア語ではいろいろ異なる語を、聖書では区別せず「心」と訳している場合もあるのですが、それくらい日本語の「心」は広範囲に使える訳です。
 
ところでこの「御心が行われますように」の「御心」には、どんな意味の語が使われていたのでしょうか。もちろん「御」という敬称はありません。代わりに「あなたの」が付いています。そして「心」は、英語ならばwillに相当するような、「意志」を示す語でした。つまり「あなたの意志が実際に起こるように」というような言い方をしてみると、事態をよく説明することになるだろう、と思われます。
 
ところがこの「意志」という言葉が曲者です。自分の意志を貫く、というイメージで捉えるであろう、私たちにとっての常識である「意志」をそのまま重ねてよいかどうかは、大いに疑問があるのです。古代ギリシア哲学では、近代哲学が当然のことのように扱う「意志」という話題が全く起こっていません。近代人が抱く「意志」という概念を、古いギリシア語にそのまま当てはめることはできない、と考えられます。
 
聖書には「意志」と訳された言葉がありますし、旧新約合わせて九つの節に「意志」という訳が出てきます。どれも適切な訳であるような気がしますが、それらは皆、人間の意志のことを表現しています。神の意志が、「御心」なのです。
 
クリスチャン生活では、何か大きな選択をするときに、よく祈りなさい、と言われることがあります。「御心かどうか、祈りなさい」というわけです。しかしこれが実に難しい。素直な若者が、真剣に祈ります。「どうか御心を教えてください」と祈るのですが、祈れば祈るほど、自分がしたい、と求めていたものが、御心に合わないような気がしてきます。自分に与えられた思いや熱意は、否定しなければならなくなるように向かってゆくものでした。
 
そう。「選択の意志」というものが、実に近代的だと言えるのです。聖書にある意志は、「気持ち」のようなものではあっても、近代以降の、選択肢の中で理性を貫く原則を保とうとする意志のような自律的なものは感じさせません。私は、聖書に「意志」という訳語があったら、すべて「気持ち」と読み替えて然るべきだ、と考えています。
 
神の「御心」は、そうした「気持ち」という言葉で説明できるものではないでしょう。「御心」の説明としては、「意志」や「心」「思い」のような言い換えがなされることがありますが、そのどれも、日本語としては非常に曖昧なものです。結局、それを人間がすべて知り得るものではないとしか言いようがありません。
 
そのことは、神の考えに任せる、ということでもあります。結局私たちは、「神に委ねる」という、信仰の根本的なところに、また新たに立たされたことになります。
 

◆祈りましょう

私たちは、「主の祈り」の中の、第三の祈りを、少しずつ立ち止まりながら読んできました。
 
 御心が行われますように
 天におけるように地の上にも。(マタイ6:10)
 
神の御心が成るように。この祈りは、私個人の「願い」を払拭するものでした。神に祈ると言いながら、実のところ、自分の願い、意地悪く言えば自分の欲望ばかりぶつけることがあるのが、人間というものです。そうした祈りはしないようにしましょう――とでもお話しすると、教会学校ではそれでよいのかもしれませんが、私は最後に、この点に立ち止まってみたいと思います。
 
「何を祈ってもよいのですよ」と教えてくれた人がいました。田舎の教会が、長らく無牧だった間に、教会を文字通り守ってきた方でした。「宝くじで当たるように、と祈ってもよいのです」と笑顔で言いました。「ただね」と付け加えます。「結果は神さまがお決めになることだから、神さまのなさることに文句は言わないことね。そこは委ねるんですよ。」
 
神に向き合って心を開くことが「祈る」ということであるのなら、こちらの狭い思惑で、神に忖度する必要はありません。これは祈ってよいことだろうか、いけないだろうか、などと思い悩む必要は全くない、ということを教えてくれました。それは結局自分の判断をあれこれ迷っていることに過ぎません。心が二つに分裂する基となります。
 
 御心が行われますように
 天におけるように地の上にも。(マタイ6:10)
 
「主の祈り」を一つひとつ受け止めているのは、私たちが祈るためです。神に祈りたい、という思いは、人類に普遍的にあるかのように見えます。時に激しく「無神論」を標榜する人もいますが、ハッとした何かのとき、思わず「神さま!」と叫ぶことは、多くの人にあり得るだろうと思います。何かの事故のニュースに、「神さま……」と祈る。子どもの受験にも「神さま……」と祈る。きっと、祈ってよいのです。自分の「願い」だと意識する以前の、何か咄嗟のものは、それが「願い」であろうがなんであろうが、祈ればよいのです。
 
但し、神は人間の僕ではありません。魔法のランプの魔人ではないのです。神の「御心」の全貌を、私たちは知ることができません。でも、私たちは祈ってよいのでしょう。神の思いと一致するかどうかは、人間が心配することではありません。ただ、そうなればいい、との憧れくらいはもっていてもよいのでしょう。私たちは妙な打算を思い描くことなく、ただ神へ向けて、神との関係を信頼しながら、祈り求めることが許されています。
 
私自身の「願い」に過ぎないようなものであっても、それが何かしら昇華して、地の上から天に近いものに変貌することができるように、希望するくらいで、よいのでしょう。願いを叶えてくれなかったから、この神を信じない、などとへそを曲げることは、まさかクリスチャンはしないでしょうが、この願いは御心ではなかった、と落胆し決めつけてしまわなくてもよいのではないか、と思うのです。
 
むしろしばしば、祈ることによって、私自身が変えられてゆくのを、祈る人は覚えます。自分が、主に少しでも相応しい者に変えられてゆく、そうした結果を経験するのです。
 
私は地の上を這い、神の前にひれ伏すだけの存在です。そこから、天を見上げて、憧れましょう。神がちゃんとお考えになっている、救いの完全な姿が、見上げた神の許にはもうあるのです。私たちはまだ見てはいませんが、神はもう用意していらっしゃいます。この信頼が、暗闇の世界に光を、絶望あるところに希望を、もたらすことを、心から願っています。

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