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祝福し合うことができたなら

民数記6:22-27 
 
礼拝の結びのころ、牧師が手を挙げて祈るような言葉を放ちます。祝祷といいます。そのとき、この箇所を宣することがよくあります。主がモーセに、これを命じたのでした。アロンとその子らが、イスラエルの人々を祝福して、このように言え、と命じたのです。主からモーセへ、そしてモーセからアロンへ、さらにアロンからイスラエルの民へ。
 
すると、神の祝福が、民の上へ、それからいまここにいる私たちの上へ、もたらされるのです。誰が誰に言っているのか、誰に言うように誰かに言っているのか、そうした構造が、思いのほか複雑です。神の祝福が、人を介して人にもたらされます。ここにあるのは、カトリック的な構図だと言えるかもしれません。司祭が神と人との仲をとりもちます。
 
果たしてプロテスタントが主張するように、私たち一人ひとりは、本当に神と直接交流し、結びついているのでしょうか。そう問わなければなりません。ところが、確かに新約聖書は、父と子、子と私という関係を告げていることがありますから、信ある人は、子を通して父なる神と結びついている、ということになることでしょう。
 
私たちは、直接神とつながっている、というのではないわけです。イエスを通じて神とつながっているのです。イエスを介してこそ、神への道が見出され、神との関係が形成されるのです。この新しい福音がもたらされている時代から、このアロンの祝福を見るならば、この祈りの言葉は、イエスによる私たちへの言葉、あるいは契約だと言えるでしょうか。
 
「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔の光であなたを照らし/あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて/あなたに平和を賜るように」と、イスラエルの人々にもこの祝祷はうれしかったことでしょう。世界中の人々がこのように、出会う人を互いに祝福し合うことができたら、愛し合えたなら、素晴らしいのに。

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