逃れの町とキリスト
ヨシュア20:1-9
律法の規定の中に、時折「逃れの町」が登場します。過失致死の罪に対する私刑を禁ずるものです。いえ、禁じているのではありません。それから正に「逃れる」のです。加害者であることには間違いありません。そして自ら行動しなければ、この恩恵には与れません。これは、キリストに救われるプロセスと、少し似た部分があるような気がします。
神の側では、救いの構造はもう確かなものとして備えが済んでいます。私たちは、加害者であることは確かです。罪があります。この罰が身に及ぶことは必定ではあるのですが、逃れの町に逃げ込むことによって、私は命を失わずに済むことになります。町の入口に立ち、自分のことをまず申し伝えます。これは罪の告白か悔い改めに相当します。
キリストは、それを受け容れてくれるといいます。場所を与え、共に住んでくださいます。神の国とは、逃れの町のことのようにも見えます。申し立てる者、罪有りと訴える者がいるわけですが、これが悪魔に相当します。しかし、いくら悪魔が追い立てて来ても、キリストは私を引き渡すようなことはなさいません。
ところでこの逃れの町は、私刑の復讐から免れるようにするだけで、その後の裁きをなくすものではありません。あるいは、現職の大祭司の死まで、ずっとその町に留まっている必要があるのだ、ともいいます。大祭司がキリストである、とヘブライ書は指摘していますが、そのときに、キリストは死ぬことがないために、おかしいと思えるかもしれません。
しかし、やはりキリストは死んだのでした。十字架の死を経験されたのです。大祭司が死んだときに自分の町に帰ることができる、ということは、もう罪が問われることなく、私刑もない、という不思議なことになっているように見えます。でも、私たちに当てはめてみましょう。私たちは、本来の自分に戻ることができ、しかも命を得るのです。
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