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間接であるべきこと

申命記5:23-27 
 
十戒が与えられる場面については、出エジプト記の事の順序というものが、私にはよく分かっていません。申命記にも十戒の記事があります。これは、モーセが改めて語り聞かせたものという設定になっているため、すべてが回想の形式のようになっています。それで構成そのものは、比較的分かりやすくなっているようにも見えます。
 
それでもここは少し複雑です。モーセはいま、イスラエルの民に語っています。まず、十戒を改めて提示しました。神からこの十戒を、私が与ったのだ、と言います。そして十戒の意味はこうであると、出エジプト記とは少し違ったイメージで伝えていますが、それはいま問題にしません。この語りの中で、民のかつての反応もまた振り返っています。
 
人々は、神の声を聞いてしまいました。火の中から、神の声が聞こえたというのです。山から響いてきた神の声は、火と雲と密雲の中から、大きく聞こえました。十戒でした。人が神の声を聞いてしまうと、死なねばならない。そう信じられていた時代です。そこで人々が、火の中から神の声を聞いたというので焦ったことが、かつてありました。
 
どうして死なねばならないのですか。民はただ死が怖いだけかもしれませんが、エジプトから導き出すという神の約束が挫折してしまってはいけないのではないか、との訴えにも聞こえます。主はこの訴えを認めたといいます。それで、今後はモーセを通じて、神の掟や法を、たっぷりと告げていくことにする、という運びになるようです。
 
神は私たちを、焼き尽くす火の中に陥れてしまうのでしょうか。この恐怖の叫びは、後の神殿の犠牲に身を重ねたのかもしれません。もちろんこの荒野の旅における幕屋の時代でも、犠牲は献げられていたといわれていますから、自分たちが火で焼かれるというのは、かなり切実なイメージにより、現実味のあることだったようにも思われます。
 
ただ、神は裁く方であるという意味では、これも当然のことだともいえます。モーセを通してのみ伝えてくれ、という願いは、聖書記者の、モーセの権威を高める目的に沿うものだったかもしれませんが、私たちが直接神からの声を聞くことを求めるのでなく、聖書を通じて神と出会い、神からの言葉を受けることの真実を教えている、とも解釈できます。

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