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律法なるものを今に照らせば

ガラテヤ5:2-6 
 
パウロにとり、割礼という問題は、律法全体を意味するシンボルであり、代表であったと思われます。現実に、この割礼こそ、というところから抜け出せない人々を恨めしく思っていたかもしれません。割礼は身体に刻む決定的な証拠でもあったために、人々がそこから離れられないのも、無理からぬことか、と少しは共感していたかもしれません。
 
第一、パウロ自身が間違いなく割礼を受けていたのです。その本人が、割礼などいらないと力説しても、説得力がありません。自分だけ安全牌を握っていて、他人に律法違犯の危険な賭をさせるような真似をしているのです。狡いではありませんか。もし私がこれを聞いたら、決して信用しないでしょう。あんたが偽っていない証拠がどこにある、と。
 
この割礼は、律法の他のものに置き換えることもできるでしょう。しかもこの律法が必ずしも聖書本文だとは限りません。後にマソラ本文やタルムードとして成立した文章が基準になった情況とは異なっていたとしても、一定の解釈の上で定説となっていた律法の理解を、エリートたちが占有するかのようにして、権威的に神の教えだとしていたのです。
 
生活の上での様々な掟が、このパウロの「律法」に値するとみてよいはずです。けれどもそれにより救われるのではない、というのが、ここから私たちが聞くべきことでありましょう。キリストが神と人との間をつなぐ唯一の存在である、というところにこそ、注目しなければなりません。その信あってこそ、愛を以て働かせる道も拓けるわけです。
 
しかし、私たちの現在はどうでしょうか。このパウロの言葉が、また新たな「律法」になっていないでしょうか。パウロの手紙のようにしなければならない、パウロに従えばあなたはだめだ、などと。それでは、パウロのスピリットが死んだものになってしまいます。教会に行くから救われるとか、行かないから救われないとか、決めつけていませんか。
 
洗礼、聖餐、奉仕、こうしたものが「律法」としてまかり通っていないか、よく心の目を光らせている必要があるのだと思います。私たちはいつでも、割礼が必要だと叫び出しかねない者なのです。いや、もう叫んでいるのかも。それとも、パウロは自分の命令だけはすべての例外だと主張していた、などと言って、自分を正当化するのでしょうか。

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