神はどうして主なのか (マルコ10:35-45, 歴代誌下34:33)
◆弟子たちの勘違い
イエスと弟子たちは旅を続けています。神の業を現し、人々を癒やし、神の教えの種蒔きをしています。神の国のために熱心な人が現れましたが、財産を手放せますかと言われてその場を去りました。神の国に入るには、富から離れなければならない、とイエスが弟子たちに向けて教えますと、自分は何もかも捨てて来たのです、とペトロが前に出ました。
旅はエルサレムに向けて続きます。と、イエスは弟子たちに改まって告げました。自分は十字架に架けられて殺される。そして復活する。マルコによる福音書でも、こうしたことをイエスが話すのは3回目でした。弟子たちの反応は、ここには特に描かれていません。
マルコの福音書は、弟子たちに対して厳しいことで有名です。マルコの中のイエスはしきりに弟子たちを叱るし、弟子たちも弟子たちで、へまばかりします。四つの福音書の中でも最初に書かれたのではないかと言われていますから、イエスの弟子たちというのは、そもそもが批判の対象であったというわけでしょうか。
10章のこの場面でも、「ゼベダイの子ヤコブとヨハネ」(35)がイエスに突然頼みます。願いをかなえてほしい、と。そして2人ともが「栄光をお受けになるとき、私どもの一人を先生の右に、一人を左に座らせてください」(37)と頼みます。マタイによる福音書では、これは2人の母がイエスに頼むことにしました。マタイは概して、弟子たちを高めようとしますから、この不始末の責任を弟子たちにではなく、その母親に負わせたのだろう、と推測されています。
イエスは、2人に手厳しい反応を見せます。他の弟子たちとの間にも、不穏な空気が流れ始めました。
42:そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、諸民族の支配者と見なされている人々がその上に君臨し、また、偉い人たちが権力を振るっている。
43:しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者となり、
44:あなたがたの中で、頭になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。
西洋東洋に関わりなく、王たる者が君臨して、国を支配するという構図がありましたし、古代から大帝国が勃興しては滅亡するという歴史を繰り返してきました。社会的政治的な問題を考えるならばそこも大きなテーマとなりましょうが、今日はその次に注目します。偉くなりたい者は仕える者となれ。頭になりたい者は、すべての人の僕になれ。ここに心を向けてみたいと思います。
◆主
まず「偉くなりたい」ということに留まってみましょう。誰でも、偉くなりたいと思うかもしれまん。他方、どうせなれない、という計算を基に、偉くならなくてもいい、などと最初から安全牌を出しておく人もいるでしょう。けれども、私たちは心のどこかで、偉くなりたいという気持ちをもっているような気がします。たとえば、自分が蔑ろにされると私たちは怒ります。偉く扱われないと不満をもつのです。
潜在的にでも、願望でも、私たちは王様になりたい思いがあるのかもしれません。誰かをかしずかせるのは気持ちのいいものです。ドメスティックバイオレンスはそのはけ口であるのかもしれません。
しかし、現実にはそうそう「主人」になれるものではありません。妻が夫を「主人」と呼ぶことはありますが、名称だけ「主人」で、実態がないような気もします。
「ご主人様」という言葉を知ったのは、いつからでしょう。「アラジンと魔法のランプ」の物語は、子どものためにも絵本や映画になっていたでしょうか。魔法の精が「ご主人様」などという言葉を使っていたのが面白くて、小学生のクラスでけっこうふざけていたのではないかしら。
同じ「ご主人様」でも、近年は「メイド喫茶」なるものがあって、若い女性が「メイド服」を着ておじさんなんかを店で迎え「お帰りなさいませ」などとアニメ声でもてなすというような風俗もあるのですか。世のおじさんは、仕えられたい欲望をそこで満たすのか、それとも、ふだんは虐げられているのでその反動で求めるのか、いろいろあるかもれしません。
教会に来ていなくても、クリスマスの歌で「主はきませり~」と繰り返せば、これも心に残ります。これが「主」という言葉との出会いだという人も多いのではないでしょうか。「シュワッチませり~」と勘違いしていた子もいたようです。
考えてみれば「主」というのは不思議な言葉です。「主人」なら分かります。しかし「主」とは何でしょう。どうやら聖書では「主」は「神」と同じように使っているようにも聞こえます。さらに「主イエス」という呼び方もあり、いったい「主」とは何であるのか、やはり不思議であるに違いありません。
新改訳聖書では「主」という文字が、普通の字のものと、太字のものとがあります。普通の字の場合は、普通名詞としての「主」であって、「アドナイ」というようなギリシア語であるそうです。太字は、ヘブライ語で「ヤハウェ」と呼ぶと考えられている、イスラエルの神の本名みたいなものが用いられていることを示すのだそうです。つまり、太字は固有名詞なのです。同じ「主」でも、私たちがふだん使う「主人」のような意味合いのときと、まさに「神そのもの」のことを指すときとで、区別しているというのです。それほどまでに、神の名がどうしても日本語では「主」でなければならない、というところにも、どうしてだろうという思いが生まれてきます。
◆僕
43:しかし、あなたがたの間では、そうではない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者となり、
44:あなたがたの中で、頭になりたい者は、すべての人の僕になりなさい。
「すべての人の僕になりなさい」というイエスの言葉が響いてきます。「ぼく」ではなくて、「しもべ」と読ませてください。いつしかこれが、基本的に男の子の、自分を指す漢字として使われるようになり、「ぼく」と読むようになっていますが、もとは「しもべ」と読んで使われていました。この「僕」がいてこそ、「主人」というものは成立します。これが先ほどの問題の箇所にも出てきていました。
「僕」がいてこそ、「主」が成立する。それは本当のことです。しかし、この「僕」という語は、日本語だと、まだ生ぬるいような気がします。原語は普通「奴隷」と訳されている言葉なのです。
確かに聖書では「奴隷」という訳語もあります。特に旧約聖書では顕著であり、新約聖書にもあります。そこでは奴隷の身分という意味で使われることもありますが、たとえば罪の奴隷になる、という意味合いを含む場合もあります。しかし、邦訳聖書全体で「僕」という訳語は、「奴隷」のほうの3倍ほどあるのです。日本語で「奴隷」としてしまうと合わない場合もありますが、これでは深刻さが伝わらないかもしれません。
「僕」とあるのは、率直に言って「奴隷」のことです。日本語で「奴隷」というと、たとえぱ映画「ベン・ハー」で、罪人とされた主人公がガレー船を漕がされている様子を私などは頭に思い浮かべます。また、黒人奴隷の生々しい歴史は、その差別がいまなお終わっていないことを考えさせるかもしれません。差別は遠い外国の出来事のような錯覚さえ日本人はしていますが、どんなにこの社会に差別と奴隷的な扱いがあるのか、またそれを自分がしてしまっているのか、省みる必要があることは間違いありません。
イスラエル民族は、エジプトで「奴隷」だった、という自覚をもっています。創世記をお読みになると詳しく分かりますので説明は割愛しますが、エジプトでこき使われていたイスラエルの民は、神に呼びかけられたモーセによって、エジプトを出て、いまのイスラエルの地に旅するようになります。エジプトでの生活は「奴隷」であった、そして脱出した後もいろいろありましたが、結局は与えられた地に着いて「自由」を覚えます。
「奴隷」と「自由」の対比は、パウロの手紙の中でも顕著になされていますから、また機会があったら一緒にお読みしましょう。エジプトでの「奴隷」の生活について少し触れますが、圧倒的なエジプト王の権力の前に従うしかなかったものの、生活そのものががんじがらめであったかどうかは疑問です。私のもつイメージとは異なり、かの古代文明での「奴隷」という立場は、それなりの自由をもっていたと言われているからです。
身分は確かに「奴隷」です。私たちの言う基本的人権というものが保証されているわけではなく、自由権があるわけではありません。しかし、古代オリエント世界での常識として、「奴隷」であっても、能力のある人物はそれに見合う役職に抜擢されることは普通であったと聞いています。創世記でもヨセフがその好例です。その知恵によって、エジプト王に次ぐ地位にまで上り詰めたことで、イスラエル民族が存続することに役立ったわけです。それは極端な話ですが、全くの絵空事でもなかったのではないかと思います。
そうでなくても、家政の仕事を司る「奴隷」はかなりいたようです。彼らが担った、家の財産の管理など、家を取り仕切ったことが「オイコノミア」と呼ばれましたが、これが後に大きな範囲で考えられたときに「エコノミー」つまり「経済」という語になったことは有名です。
黒人を初め民族的な差別はいまも大きな問題であるにしても、いわゆる「奴隷」という身分はいま見られない、とお思いかもしれません。人権を大切にする以上、確かにそれは建前の上ではないかもしれません。しかし、世界にはそれの満たされない国もあります。特に「女性」であるだけで、そのような扱いを受けることが公的である制度もありますし、見かけは「女性の権利」などと聞こえのよいことを男性が唱えながらも、それが蔑ろにされて世界でも最低ランクになっている国は、一番身近なところにあるかもしれません。
さらに、会社の奴隷のように働いて居るからこそ、過労死が問題になっているのだ、とも言えます。会社に、家族を人質に取られている、という意識をもったことのない人は、幸せでしょう。私はあります。会社から切られたら、自分のアイデンティティさえなくなるという恐怖を懐いたことのない人にしても、いったいどれくらいいるのでしょうか。
◆仕える
出エジプト記には、ヘブライ人の奴隷が6年間奴隷として使えたら、7年目には自由の身としなければならない、というのです。もしその主人が女を与え子をもうけていたら、その妻子は主人のものだから置いて行かねばならないことになっていました。
しかし、その奴隷がはっきりと、「私は自分の主人と妻と子どもたちを愛しています。自由の身として去るつもりはありません」と言うなら、主人は彼を神のもとに連れて行く。すなわち、門の扉か柱のところに連れて行き、彼の耳を錐で突き通さなければならない。そうすれば彼は生涯、主人に仕えることができる。(出エジプト21:5-6)
妻子の故に、奴隷状態を更新するということなのか、その主人が良い人だったので慕ってそうなるのか、これだけの説明ではよく分かりません。どのくらい、実際にそうしたケースがあったのか、それも私は知りません。
しかしヘブライ人、つまりイスラエルの民を奴隷とすることは、旧約の律法では禁止されているように思うのですが、その点はどうなのでしょうか。
もしあなたのそばで、あなたの同胞が貧しくなり、あなたに身売りをするなら、奴隷の仕事をさせてはならない。(レビ25:39)
きっと偉い研究者が、この謎を解いているのだろうと思います。同じイスラエルの民であっても、経済的に如何ともし難い現実というものはあったのでしょう。負債が重なり、身を以てそれを返すしか、道理が通らない事態があったのではないかと想像されます。そのとき、奴隷という身分に落とされた者は、主人に対して仕えるという人生を歩むことになります。奴隷は、主人に仕えるしかないのです。
キリスト教会で、礼拝の終わりのほうで、いわゆる「祝祷」というものが普通あります。ただの祝福の祈りではないので、「派遣」などと呼ぶ教会もあります。礼拝で神との対話を新たにし、祈りと賛美での交わりに加え、神からの言葉が与えられる。それから、また一週間、この世での生活でキリスト者としての生活を始める。そこへ送り出されるのです。このとき、牧師の祈りの中で毎回、「仕えなさい」と繰り返すところがあります。ああ、教会とはそういうところなのだ、と噛みしめると同時に、神に仕えるという抽象的なところはともかくとして、人に使えるということができていない自分自身を恥ずかしく思わされる気がしてなりません。
けれども、私の妻に言わせれば、「仕える」ことは当たり前だ、と言うのです。私に対してではありません。妻は医療従事者です。ひとつ間違えれば命に関わる現場です。患者に仕えるという根本的な姿勢がなければ、医療は務まらないというのです。
私も、営利企業ではあるにしても、教育の場のはしくれにいます。営利が関わるので、会社や教室の方針に仕えるしかありません。否、本質的には、子どもたちに仕える思いで仕事をしています。小学生の生徒には、その背後に親がいるものと考えます。中学生は基本的に親よりも本人を意識しますが、もちろんけなしたり否定したりすることはしません。なかなか困った学力の子も、ひたすら励まします。ある意味でやはり仕えていると言ってよいのではないかと思います。尤も、私の魂が心の底から仕えているかどうか、それは私が威張って言えるようなことではないような気がします。
教会でもそうです。私は元来素直というか単純なところがあり、いきなりカチンときて感情的になるよりは、じっくり情況を確認し、自分のほうが間違っているかもしれない、という意識をまず優先させてから、物事を考えます。できるだけ疑いなく従おうと試みますし、お人好しなところもあると思います。聖書の理想を掲げる方がしっくりきますから、おめでたいところがあると言えるでしょう。
けれども、「仕える」ことに対して、できないことはあるわけです。教会を破壊する者が現れたとき、私は教会よりも家族を護りました。神の言葉を語れない者を、語る者として招き入れる動きに対しては、然りは然り・否は否として拒絶しました。いったいほかの人は神の言葉をどう考えているのか、何を信仰しているのか、全く理解ができませんでした。私は太鼓持ちはできないのです。仕えるべき対象が異なる場合には、まあいいじゃないか、という態度をとることができません。尤も、最初はそれによく気づかず、私もその破壊に加担するような真似をしてきたことを、いまは痛切に悔やんでいますが。
何にでも仕えればよい、というのは聖書の世界の考え方からしても、誤っています。引用することはしませんが、旧約聖書にはたとえば「バアルに仕える」ということが、如何に忌み嫌われていたことか、聖書を開けば明らかなことです。バアルという異教の神、イスラエルが決して仕えてはならない神々を慕う者たちを認めることは、聖書は決してしなかったのです。
◆主に仕える
33:ヨシヤはイスラエルの人々のすべての地から忌むべきものを取り除き、イスラエルにいるすべての者をその神、主に仕えさせた。彼が生きている間、彼らは先祖の神、主から離れることはなかった。(歴代誌下34:33)
「バアルやアシュトレト、アラムの神々、シドンの神々、モアブの神々、アンモン人の神々、ペリシテ人の神々」(士師記10:6)に仕えた人々は、主を捨てたことになりました。歴代誌はそれよりもずっと後の時代のことを描いていますが、「忌むべきもの」とは、たとえば、こうした異教の神々とそれに関する祭儀などを指しているものと思われます。
そこで、ヨシヤという若い王は、イスラエルの民を主に引き戻したことで、聖書では称えられています。「主に仕える」ことが、イスラエル民族では根柢に置かれている、その生き方を表しています。しかし、自分は神に仕えていると思い込んでおきながら、実はひとを殺すことを無邪気にやっている、という恐いことも起こり得ます。
人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。彼らがこういうことをするのは、父をも私をも知らないからである。(ヨハネ16:2-3)
これはユダヤ人たちのことであり、ファリサイ派の人々や律法学者、祭司長などの権力者のことを表している、ということは、聖書を少し学べばすぐに分かります。それは新約聖書の基本姿勢であり、正にその通りです。しかしそれは、私たちが彼らを非難するために記されていたのでしょうか。むしろそこに、さらに大きな罠があり、危険があるというように捉えてはならないでしょうか。
人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。(ヨハネ16:2)
彼らは、自分では、自分が主に仕えている、と考えていたのです。神のために、あの新説を騙って世の中を惑わす「キリスト狂い」の者たちを私たちは滅ぼす、それが平和のためだ、神のためだ、自分は神のためになんとよいことをしているのだろう、そのように考える者が現れることを、将来のこととしてこのイエスは告げています。
悲しいことに、キリスト教会の歴史は、このようなことを現実の時の中に刻んできました。敢えて実例は申しません。私たちは、それを思い出すべきだと思うのです。しかも、過去の世界史を以てまた他人事だとして見ていると、結局そのような者が、無邪気にその酷いことをしてきたのだ、という点を理解しなければならない、と私は強く強く思うのです。
◆何に仕えるのか
どうしてそのような誤りが平然となされるのか。様々な要因があろうかと思いますが、ひとつだけ可能性を問いたいと考えます。このとき、「主に仕えている」と自分では思い込んでおきながら、実は「主」に仕えていなかった、という事態が起こっているかもしれないのです。実は別のものに仕えているのに、「主」に仕えているのだ、と自分に言い聞かせているようなものです。
「主に仕えている」ととりあえず公言しておけば、教会の中では安全です。自分は正しいことをしているように見られます。自分は正義になります。自分が得をするのです。それは恰も、自分のために、そのように演じているような形になりはしないでしょうか。そう、つまりここで仕えている対象はその「自分」です。私たちは、自分を神としているという構造が中心にある、それを問わねばならないと言いたいのです。
まさか、自分を神とするなど、意識もしたことはないぞ。そう仰るかもしれません。そのことを教えてくれるのが「聖書」という書です。「聖書」を真摯に読むならば、自分というものが如何に絶望的に間違っているか、ということが分かってきます。自分はとことん、自分の腹に仕える者なのか、思い知るべきなのです。少なくとも一回きちんとそれを知り、神からの救いの言葉に身を委ねることが、信仰のためには必要なのです。
きょうだいたち、あなたがたに勧めます。あなたがたが学んだ教えに反して、分裂やつまずきを引き起こす者たちを警戒しなさい。彼らから遠ざかりなさい。こういう人々は、私たちの主であるキリストに仕えないで自分の腹に仕えている。そして、甘い言葉やへつらいの言葉によって、純朴な人々の心をだましているのです。(ローマ16:17-18)
これを書いたパウロは、教会の中に生まれた危険人物たちのことを挙げています。もしかするとパウロよりもかなり後の時代にこれはローマ書の中に加えられたのではないか、と推測する人もいますが、だとすればなおさら、しばらく後の教会の中に、そうした危険人物が現れてきたからこそ書かれたに違いありません。
それは私たちのことかもしれません。私たちは自ら「仕える」と言います。主語は「私」でよいでしょうか。では「誰に」なのでしょうか。私が私のために私に仕えていて、どうなるのだろうか、と見限らなければならないのです。「誰に」ですか。「主イエス」でしょうか。ならば、この方をしっかりと見つめて離さないでいる必要があります。この人のためにどうすればよいのか、その視点が大切です。但し、これが行き過ぎて、何事も「神のために」正当化するようになると、これまた実のところ自分を神としていくようなことになってしまうかもしれません。どこまでいっても、人間の自我というものは、始末に負えないのです。
私たちは「僕」に過ぎません。そして、神を、イエスを、「主」としてその方に仕えるのです。これを受け容れた者だけが、「キリスト者」であるのです。このイエスは、私を愛してくださいました。こんなに愛されているのが、という信仰があるから、この方に仕えると言えます。この主人は、奴隷を愛してくださったのです。奴隷のために命を投げ捨てたのです。
◆イエスの姿を
たとえば会社で、良い上司に恵まれるという人がいるかもしれません。この上司のためにも、頑張って働こうという気持ちを懐く場合だってあるでしょう。残念ながらそのような体験に恵まれない方もいらっしゃると思いますが、上司であれ師匠であれ、感謝すべき上役がいるということは、そこそこ世の中にはあることなのです。
教会でいつも下足番をしている人がいた、という話をかつて聞きました。ただ、知る人ぞ知る、この人は大きな会社の社長だった、というのがその話の落ち着くところでした。教会とはそういうところでもあるのだ、ということだったと思います。
「イエローハット」という会社があります。自動車用品のチェーン店です。戦後間もなく始まりましたが、その創業者である鍵山秀三郎氏について、ウェブ情報ですが、信頼のおける形で少し知るところがありました。
高校卒業後、当時としてはラッキーだったといいますが、自動車用品店に就職します。親を鑑とし、掃除を黙々としていきます。そのために先輩にいじめられることもありましたが、自分の信念を貫きました。店をいつも掃除し、清潔にしていたら、客層が変わりました。こうして後に立ちあげたイエローハットでは、社長自らがトイレを掃除し続けたそうです。実に半世紀以上も、トイレ掃除を率先してやり続けるのです。しかもそれが、便器を素手で拭くというのですから驚きです。
この話は広く伝わって、他の企業でも見習ったということもあるのでしょう、案外社長自身がトイレ掃除をしている、という会社は多い(ある論評では7割)のだという声もありました。
キリスト教会でも、さすがにいろいろ気づかれるようになってきました。けれども一昔前は、そしてへたをするといまでもなお、あるのです。食事も掃除も女性の役割。しかしその女性が役員になることが殆どない。教会の特に男性が、少数派であったにしても、いつの間にか偉くなってゆく。たとえ男性が食事を担当する週があったとしても、特別によいことをしているような目で見られるのであっては、内実は何も変わっていないのでしょう。
新約聖書で特に持ち出されるのが、イエスの「洗足」と呼ばれる場面です。
夕食の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手拭いを取って腰に巻かれた。それから、たらいに水を汲んで弟子たちの足を洗い、腰に巻いた手拭いで拭き始められた。(ヨハネ13:4-5)
それは奴隷の仕事でした、などという説明がなされます。けれども、私たちにはどこまでピンときているのでしょう。なまじこうした昔の風習をそのままに話すから、私たちは生ぬるい考えしかもてないのかもしれません。
イエスはこの洗足ということで、弟子たちに衝撃を与えたのです。そう、今日も教会で、イエスはトイレ掃除をしているのです。素手で便器を拭いています。私たちの臭い汚れた靴を、舐めるように息を吹きかけて磨いています。こびりついた油を、手が真っ黒になりながらこすっています。ゴキブリの糞を素手でかき集め、生ゴミを素手で袋に押し込め、処理場に運んでいます。赤ちゃんのおしめを手で洗い、汗と泥にまみれたユニフォームを洗うその爪は真っ黒です。
いえいえ、そうしたことを日々してくれている方々がいます。あなたの家族がそうですか。世の中の仕事をなさっている方ですか。世の中には、イエスに仕えている人々が、私たちが思うよりたくさん、いるとは思えないでしょうか。
その方は、あなたのこびりついた罪をこすり落とそうと、一番汚いところを磨き続けていた。その後、あなたの罪を被るようにして、無惨な殺され方をした、それが、イエスです。ただ奉仕をしただけではありません。私の代わりに殺されたのです。――けれども、私はここで、安っぽい結論は出しません。「仕える」という言葉の重みを、今日私たちは胸に反芻するにように考えよ、と神から突きつけられたのだ、と言いたいだけです。皆さまに対しても、ただイエスの姿を心に描きながら、「神はどうして主なのか」と自らに問いかけて戴きたいのです。
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