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かつての自分を覚えて

テモテ一1:12-17 
 
かつての私はどうであったか。せっかくそれが書いてあるのに、人はそこを軽く読み飛ばしてしまいがちです。いや、神はそれらすべてを赦し、憐れみを与え、イエス・キリストが救ってくださったのだ、ハレルヤ、と喜びたいかもしれません。けれどもそう考えたとき、えてしてもうかつての自分のことなど、なんとも思ってやいないのではないでしょうか。
 
通り過ぎてしまったもの、もう関係のないもの。だって、キリストが十字架でそれらをすべて解決してしまったのだ。過去を振り返り、そこに留まっているようではだめだ。まるで救いの業を否定するかのような、そんな立ち止まりは、不信仰である。そんなふうに考えているのかもしれません。いや、その通り事実そうなのです。
 
神はすばらしい。そう口にすることが、悪かろうはずがありません。けれども、その思いの裏に、自分の罪、自分の惨めさが張りついていないとき、自分は空々しい無責任な軽率さの塊になっているのではないかと省みてみたいものです。かつて、冒涜する者、迫害する者、傲慢な者だったというのは、確かに「かつて」そうだったに違いありません。
 
けれども今はもうそうでない。本当にそう言えますか。信じる以前のことだったので許されたのだと言っているだけなら、信じた後はそうであるはずがない、とでも言うのでしょうか。そんな論理があるのでしょうか。この後並べられるような信条を唱えつつも、私は罪人のかしらであると思い続けている必要があり、思い続けざるをえないと思うのです。
 
それで当然だと私は思います。信仰があったらもう自分は変わったと信じなさい、とも言われますし、その一面を否定する者ではありません。それでも、開き直って、白々しく自分はもう清く正しく美しい、などと言ってかつての自分のことを忘れてしまっているのなら、それは自己欺瞞であるように思えて仕方がないのです。
 
それでようやく、いまを生きることができます。続く人への手本となるのだと記者は言いますが、こんな自分が救われたのだから、誰もが救われぬはずがない、というのです。自分の罪を過大に示すのは一種の傲慢にもつながりますが、これはポーズではなく、本気です。神と向き合い、これを忠実さの現れと見なしてもらえるなら、それでいいではありませんか。

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