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教会と献金の根本問題

コリント二9:6-10 
 
献金の運び手として、いわば資金集めの役割をパウロが担っていたであろうことが想像されています。そうした務めのために発した言葉がキリスト教の教義となってゆくとすると、この背景は軽視することができません。一度口から出た教えは、次は独立した掟として機能します。法の生まれたモチーフは必ずしも法の運営時に意識されるものではないのです。
 
コリント教会に献金を勧める中で、パウロは献げることについての印象的な教義を、結果的に作ってしまいました。「豊かに蒔く者は、豊かに刈り取る」というのです。こうして今に続く献金の教えができました。「いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心に決めたとおりにしなさい」という言葉が、さらに弱気な信徒を縛ります。
 
ああ、献金を自ら望んで気分良く出さなければならないのだ。自分の心が決めました、と根っから思わなかった、不信仰なのだ。つまり「心に決めた」というのが、信仰ある心とは献げることなのだ、とスライドされてしまうのです。「いやいやながら」という言い方には、不信仰だというレッテルが貼られる圧迫が及ぶように感じられます。
 
そして収入の十分の一を差し出さないといけない、という旧約聖書の規定が「強いられて」のことでないとして告白しなければ、これも不信仰となります。「喜んで与える人を神は愛してくださる」とあるから、神から愛されなくてもよいのか、という無言の圧力を呼びさえします。教会に献金すれば、恵みと自足と善い業に満ちますよ、と。
 
パウロの情況はともかく、これがすべて「教会献金」だというのが、今の教会側の理解でしょう。「貧しい人々に惜しみなく分け与え」という詩編からの引用はそう言っているでしょうか。「誰か」のために献げることではないでしょうか。教会は、貧しい人々に献げていますか。自分のためだけに使う活動費とするなら、何か根本的に間違っていませんか。

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