新年だろうが黙示録
黙示録22:1-7
新年だろうが、出会ったのは黙示録。世の終わりの記述の、さらにその結末を開きます。敵はもういません。ヨハネは天使に、えもいえぬ新しい都の幻を見せられました。それは命の水の川でした。光り輝く命の革は、都の中央を堂々と流れています。生ける水の川が腹から流れ出るという、イエスの聖霊の救いの恵みを具現するかのように、命の水の川がありました。
命の水の川の両岸には命の木がある。なにげない文ですが、原文でこの「木」は単数表現で、1本です。どうやって1本の木が「両側」にあるというのでしょう。原文では「こちらの側とあちらの側」と書かれています。命の木が都の中央を流れていますが、その片側ではなく、どちらにも命があるのだ、というふうにとってみてはどうでしょうか。
その1本の命の木は、年に十二回も実を結びます。常に命がもたらされるという意味なのでしょう。かつて神によりアダムが、食べることを禁じられた命の木の実がついて解禁されました。そもそもこの禁断の命令は、アダムに対して言われました。エバはその後で造られました。エバが蛇の言葉にまんまと捕まったことの責任はどうなのでしょうか。
聖書の最初の創世記と最後の黙示録とが、こうして結びつきました。水もありました。木もありました。この木の多くの葉が、民の病を癒すといいます。癒すといっても健康な自分はどこか他人事のように考えていたフシもあった私は、2020年にその偉大な力を思い知りました。呪いのように人を襲う疫病の力に抗するものであったのです。
神の名を額に記した神の僕たちが、神をとこしえに礼拝します。人の灯はおろか、太陽の光すら不要だというこの都、神のみが光となっています。このとき私たちは、光なる神を知ると共に、その神より、おまえたちは光の子だと言われたことを想起します。とてもそんな存在ではないのですが、神はこの都に呼び寄せてくださったその声を聞きました。
さらに永遠の神の僕として、支配する力をももっている、そのような存在なのだ、と黙示録は慰めてくれます。神と小羊の座を目の前にして、礼拝することを務めとする僕です。新年なのに黙示録だと驚きましたが、黙示録は新しい世界の始まりを見せてくれます。この幻を心に刻むために、黙示録ほど新年に相応しい書はないのかもしれません。
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