捜し求める牧者
エゼキエル34:11-16
牧者は、羊の群れが散らされたとき、自分の群れを捜し出すもの。そのように、主なる神も、自分の群れを捜し出すのだといいます。イスラエルが、実際にこのような牧者を欠いていることで、主自らが動くのだそうです。主は、自分の群れを尋ね求めます。どこにいるのか、どこに行ったのか。名を呼び、絶望と闘いながら、尋ね求めているのです。
あらゆる所から救い出す覚悟を、散った側の羊はどう見るでしょうか。イスラエルの人々は、他の人間たちの間に隠れてしまっています。主はそこから見出し、連れ出すのです。そして、イスラエル各地で羊たちを養います。そこは豊かな牧草地。良い牧場です。そこに伏す羊たちの安堵は如何に。なんとも安心を覚え、幸福感があることでしょう。
エゼキエルはこの羊たち、イスラエルの民を「失われたもの」と呼びました。これをイエスは見逃しません。イスラエルの失われたものを救うために来たのだ、と言いました。尤も、マタイ伝のこの節は、一部の写本に特有のものだとした、近年は本文から省かれて巻末に置かれてしまっています。ちょっともったいない気がします。
しかし羊の群れの一人ひとりを捜し歩く牧者の姿は、イスラエルの各地を癒やしと教えを以て旅するイエスの姿と、重なって見えてきて仕方がありません。失われても捜し求める、散らされても連れ戻す、傷ついても包みこむ、病んでいても力を与える。私は、そうやって引き出された一匹の羊に過ぎません。それ以上の何者でもありません。
けれども、確かにこの主のはたらきにより助け出されたことを、私は知っています。どんな労がそこにあったでしょう。そういう主と、私は出会いました。これは、もう事実なのであって、その事実を同じようにもっている羊たちと共に生きる、それこそが教会というものです。それでなければ、教会と称せられることができる群れではありません。
一方、肥えたもの、強いものを滅ぼすことが公正である、と主は付け加えています。それ自体が一種の依怙贔屓であるとの誤解が生じるかもしれません。が、それは、偽牧者が実際に、強大な権力を手にして、羊たちの群れを散らした事実があったからでしょうか。そして、それを取り巻く太鼓持ちが、そういう自覚がなかったからでしょうか。
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