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神の霊がもたらす救いに与る

コリント二3:4-11 
 
パウロは手紙を書いています。それは神が書いたとも見られます。神は手紙をどう書くのでしょうか。神は例によって、人の心にそれを書くのだ、とパウロは考えているようです。パウロが何かよいことを書いたとしても、それはこの神のなした業に過ぎません。なぜならこの手紙は、パウロの肉の心を書いたのではないからです。
 
もし人間の生の力でのみ書かれたものであったのなら、その手紙の言葉は人を殺す作用しかもちえなかったかもしれません。人の言葉は暴力となります。人の肉の心が生み出した言葉は、人の魂を殺すように発されてしまうことがあるのです。パウロはこうして、神の霊を運ぶ務めに就き、それを誇りに思っています。それは霊に仕えているということです。
 
パウロはそう願い、綴ります。人々に、神の救いを伝えています。そこに神の栄光が輝くように、と祈りながら。神の救いは、神の義の現れです。神の義と称されているものは、神の救いを事実上示しています。それが新約の光の中では、イエス・キリストの業とこの方への信仰を包みながら目指しながら、示すものとなっています。
 
パウロ本人は、新約聖書というカノンを手にしているわけではありませんが、その中でこの確信を懐き主張するというのは、大胆な信仰であった、と見なすべきではないでしょうか。パウロの姿は、律法を授与されたときのモーセの姿を想像させます。そこにも神の栄光が輝いていた、という表現がありました。ただ、律法は永遠のものではありません。
 
律法は、乗り越えられるべきものでした。ここでそのことに触れているわけではありませんが、律法は、イエス・キリストによって超えられたことは確かです。もちろん、律法が否定されて消えていったわけではありません。止揚されたのです。イエス・キリストの十字架という画期的な出来事において、より高い段階へと進んだのです。
 
十字架には、人間自らが知り得なかった救いの輝きがあります。この栄光へと私たちは招かれています。否、栄光の姿に変えられてゆくのです。こうした変革が、新しい契約です。キリストの出来事が、このように大きな全き変化をもたらしました。私たちも、このパウロと共に、いまここで、また同じ救いを受けているのです。

神は私たちに、新しい契約に仕える資格を与えてくださいました。
文字ではなく霊に仕える資格です。文字は殺し、霊は生かします。(コリント二3:6)

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