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危機からの逃れ道

コリント一10:11-13 
 
出エジプトの旅を思い起こし、偶像を礼拝した人々が滅んだことを、パウロは指摘しています。これは、私たちへの警告であるとすべきでしょう。いま私たちは、世の終わりにいるという情況設定があるからこその切実さを覚えます。パウロにも、そう認識されていました。「私たち」の言葉が示すのは、もちろん当時のコリント教会のことです。
 
第一義的には紛れもなくそうであり、「やんちゃ」をやらかしていた「いい大人」がそこにいたように描かれます。偶像礼拝を彼らがしていたのか、というと、そんなことはないと私は思います。次に記しているように、市場の肉が偶像に献げられていたかどうかを気にする人々がいて、その点で意見の食い違いや相違があったということなのでしょう。
 
その程度の問題ではなかったかと私は思うのですが、どうでしょうか。すると、偶像を露骨に礼拝していた、という意味での批判ではなくて、キリストに与る聖餐において一つとなってゆくことを示す目的の故であったというふうに解することができると思います。ただ、自分は大丈夫だと自己義認がそこに混じると、根本的におかしくなるのです。
 
特に、コリント教会は危機的状況にある、とパウロは思っています。自分が初めて建てた教会のようです。見ていて心配なのです。自分で立っていると思い込み、安心するな。いまの状態は訓練と思え。ただ、それはいまだけの特殊なものではなく、イスラエルの歴史の中にもいろいろありました。人間ならば誰でも陥りうるところのものなのです。
 
それでも神を信じよ。神を見上げ、神が主人であるという世界観の下で、自らの置かれたところを知るとよい。この方は、そんな私を、自分たちを、信実を尽くして導いてくださいます。これまでも、そして、これからも。それは二千年を経て同じ信仰が伝えられ、同じ霊に導かれている私たちにも、等しく聞こえてくるべき言葉です。
 
時と場を超えて、同じ言葉が迫る。時間と空間を超えて、神の信実が迫ってくる。でも、この訓練は少しばかり怖いものがあります。私たちは、行き場を無くしてしまわないでしょうか。いえいえ、耐えられないような試練を神は与えません。荒野の旅にしても、別の道を辿るように神は民を導きました。主にある者には、逃れる道が備えられているのです。

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