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逆説と説教

「逆説」として自分が発案して説を出すとき、世間の人が騙されているのに自分だけは真理を見出した、のような心理を含んでいることがある。
 
はたして逆説とは何か。こういうときに、昔は決まって「広辞苑」によると……と言っていた。広辞苑信仰があった世代に染みついた性であるのかもしれない。少なくとも、それだけを権威にして寄りかかろうとはしないほうがよいだろう。
 
因みに、旧い広辞苑では、「逆説」について、二つの項目が設けられていた。だが、デジタル時代で見られる「大辞泉」や「日本国語大辞典」には、三つの項目がある。大きな差異はないので、ここでは「日本国語大辞典」の、要点を挙げることにする。但しもちろん、あくまでも考察の契機にするためである。
 
① 真理にそむいているようで、よく考えると一種の真理を言い表わしている表現法。
② 一見自明な命題から論理的に正しい推論によってみちびきだされたように見えながら、矛盾をはらむ命題。
③ 常理に反する説で、その説に反発する正当な論拠を見いだしがたいもの。
 
いずれも、「逆理」と「パラドックス」の言い方も可だということが加えられており、そもそもこの語は paradox の訳語であることが冒頭に掲げられている。
 
自分の理解の仕方が「逆説」である、と主張する場合は、①の意味で使おうとしているものだと思われる。他人の常識に抗うが、自分の見方こそ正しい、という主張である。だが、逆説には、ここにあるように、多角的な捉え方が可能である。
 
アポリアに陥る論理もパラドックスである。カントの超越論的弁証論におけるアンチノミーにも、そういうものがあると言えようか。また、アキレウスが亀に追いつけない、などのゼノンのように、おかしいと思わざるをえないけれども、それを論理的に説明することが大変困難であるものについても、パラドックスである。
 
だが、自説が、常識に反しているが真理だ、と言いたいときに盛んにこの「逆説」という語を使うとすると、次第に貧困な思想に陥ってゆく運命にある。というのは、この方法だと、その自説がやがて常識となったときに、自説はもはや逆説ではなくなってしまうからである。
 
もう少し根本的なことを言うと、この意味で用いる「逆説」という言葉は、あくまでも「常識」という前提に基づいてのみ使うことができる、という制約がある。
 
地球は太陽を中心として回っている。これは、天動説が常識であった時代には、立派な「逆説」であったであろう。天動説を多くの人が信じていた、あるいは信じさせられていたからこそ、それは突飛なもの、異端児のようなものであった。だがいまやそれが常識となり、実は地球は動いているんだよ、などと叫んでも、道化を演ずるだけとなるだろう。
 
しかし、この例はあまり適切でないかもしれない。天動説が誤りであるとは決まっていないからだ。あくまでも地動説は、法則をエレガントに説明するのに合致していた、というだけのことであって、相対的なものに過ぎない。天動説でも、説明はできていたのである。まして、その太陽すら銀河系の中で動いているとなると、凡ゆるものが相対的に動いているようなこととなり、逆説的に常識となった地動説すら、もっと別の観点では適切な説明とは言えなくなってしまうであろう。
 
学問というものは、他人と同じことを、ただ同調して述べていては成り立たない。そこで、新たな見方を提言することがその職業の本質的な部分となり、なんとか新しいものを提示したい、というモチベーションから動き始めるというのは、理解できる。学者は論文を書かなければ、仕事をしていることにならないのだ。
 
だが、そのことをいつでも、一匹狼のように「逆説」である、というように主張するとなると、私はなんだか空しさを覚える。逆説は、やがて陳腐な常識にもなり得るのだ。また、さらにそれがまた、別の逆説により踏み越えられてゆくことも避けられないのだ。
 
聖書に於いても、そういう解釈が、時代の中で盛んに現れては、消えていった。その空しさから、結局、古代の教父の黙想に優る理解はないかもしれない、などと考え始める人もいてもいいし、少なくとも、科学のように新たな解釈のほうが正しい、という決まりはないと言わざるを得ない。尤も、科学とて、新しいのが正しいというのは希望的観測でしかないのだが。
 
ただ、センセーショナルに「逆説」などと言わなくても、毎週、それを成し遂げている場所がある。礼拝説教である。長く礼拝説教に聞き入る人生を歩んでいると、それなりに聖書についての理解が進む。だが、命ある礼拝説教を聞くと、ハッとさせられる。それも、毎週決まって、そうなのだ。ああ、そんなことは気がつかなかった、と思わされる。今まで見たことがなかった風景が、まざまざと思い浮かべられてくる。
 
何故か。それは、説教者が神と出会っているからだ。その説教者もまた、準備と黙想の中で、ハッとさせられたのだ。新たな体験をしたのだ。
 
長年寄り添う夫婦の場合、「またあの話だ」と厳しい批評が飛んでくることがある。思い出話や、持論を語るとき、「また……」という目で見られる。だが、今日あった面白い出来事に感動して、それを楽しげに話すと、相手はたいてい笑ってくれる。新鮮なのだ。いつもと同じように、「迷惑な人がいてね……」というぼやきであっても、いつもとはまた違う人の例だから、よく聞いてもらえるのである。
 
礼拝説教でも、「またあの話だ」となることがあるかもしれない。「確かにそうだね」と、着陸するところが予想した通りであることがあるかもしれない。そういうのは、説教者が、ありきたりの、いわばベタな話をしているときであって、「だからどうした」と言いたくなる場合である。全く命のない説教を聞かされたことがある。こういうことを他の人でも感じる例があるだろうか、と私は自信がなかったが、最近見た『説教ワークブック: 豊かな説教のための15講』に、正にそういう事例が紹介されていて、「この話は前に全部聞いた」症候群、と書かれているのを見て、思わず噴き出してしまった。尤も、この言葉は、聞く側に問題がある、ということを言いたいがために登場したのではあったが。
 
偶にベタな話をすることがあっても、毎週労苦して語る説教者を責めることはできない。だが、常にそれしか話せないとなると、これは別の問題が伴う。これは、聞く側に問題があるとは言えない場合のことを言っている。特に、自分がどういうところからどのように救われたのか、これを一度も話したことがない人物の場合は、ほぼ理由が決まっている。聖書について幼い頃から知識として聞かされ、また神学もある程度お勉強はしたかもしれないが、救われた経験がないのだ。神と出会ったことがないのだ。
 
京都に行ったことがない者が、いくら京都について雄弁に話しても、何の魅力も感じないのと同様である。だが、京都に度々行った人、京都に住んでいる人が話したら、それは生き生きとして、聞くことが楽しいことだろう。
 
神の話ができる説教者の語る礼拝説教は、実に楽しい。聞くだけで、目の前に、聖書の文字が、情景となって目の前に広がってくる。聞いていてドキッとするし、ハッとさせられる。そして、その言葉を受け止めることで、自分のいる世界が変わるのを知る。否、本当はそうではない。自分が変えられるのだ。
 
イエスの言葉が、聖書の言葉が、自分の中の常識とは違う光に輝いて見えてくる。正に逆説である。しかも、人間が偉そうに聖書を解釈して、聖書より上に立とうとするようなことではなく、その光は上から射してくる。人間の外から、人間を超えた力を以て、私を包むように射してくる。私のハートは刺し貫かれる。言葉にできない平安が、救いの実感が、及んでくる。命をもたらす説教は、確かに神の言葉であり、その場に神の出来事を起こすものなのである。

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