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集まるときには (歴代誌上11:1-3,コリント一14:26)

◆基準は自分
 
政治制度には改革が必要か、それとも今の状態を保つほうがよいか。革新と保守という分け方が、政治的にはまずなされます。日常の些末なことにおいても、変化を求めるタイプと、現状維持がいいというタイプの考え方があろうかと思います。我が家でも、洗剤や歯磨き粉などの消耗品は、毎回同じものを使うのが普通ですが、たとえばドレッシングだと、それまでと違うものを買う傾向があります。遣う場面や対象によっても、どちらのタイプか、異なるかもしれませんね。
 
ただ、概ね私たちの生活レベルでは、自分に馴染んだこと、慣れたことのほうを選ぶことが多いような気がします。あるいは、自分がこれまで経験してきたようなことしか知らない、と言ったほうがよいようにも思います。それと違う変化を知らないために、あるいはとにかく自分は生まれてこの方それしか知らないために、別の現実が想像できない場合もあるのでしょう。
 
「普通」という言葉は、いまや不思議なニュアンスで使われるようにもなりました。「普通に美味しい」と若い人に言われたら、かなり喜んでよいのだそうです。そう言えば、手話の世界で「まあまあ」という手話は、実は高評価である、というふうに聞きました。自分の感覚を普遍的なものと決めつけてかかると、コミュニケーション自体がうまくいかない場合がありそうです。
 
教会の礼拝も、ひとつの教会しか知らないと、時折驚かされることがあります。帰省したり、出張したりして、偶々別の教会の礼拝に出席したとき、戸惑うことがあるのです。献金が説教の後と信じ切っていたのに、礼拝の前半で「献金」と言われて、まだ用意していなかった、などという場合があるでしょう。ただでさえ、聖書や讃美歌が違うなど新鮮さが伴うものですが、プログラム構成が違うと、慌てることもありそうです。
 
礼拝に対する考え方の違い、あるいは歴史的な調査の上での納得によるなど、いろいろな理由があるものと思われます。こうした礼拝は、エルサレム神殿での礼拝ができなくなってからの形式かもしれませんし、そもそも世界各地に散らばっていたユダヤ人たちは、それぞれの会堂ですでに様々な礼拝形式を調えていたのかもしれません。ひとは、逞しいものです。
 
26:きょうだいたち、それではどうすればよいでしょうか。あなたがたが集まるときには、それぞれほめ歌を歌い、教えを説き、啓示を語り、異言を語り、それを解き明かしますが、すべては教会を造り上げるためにすべきです。
 
コリントの信徒への手紙一の14章からの引用ですが、礼拝や集会の中で、歌ったり、聖書の説教があったり、各地でいろいろあったろうことが、少し伝わってきます。
 
◆礼拝を守る
 
イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある個所が目に留まった。(ルカ4:16-17)
 
イエス自身、この礼拝に初期から携わっています。シナゴーグと呼ばれる会堂に「いつものとおり」安息日に入ります。誰か相応しい人が自由に説教をすることができたのかもしれません。この日、イエスは聖書を読み上げます。イザヤ書から説き明かしを語ったことが記録されています。
 
いまの教会での礼拝も、およそこの路線で踏襲していると言えるように思われます。しかし、安息日を特別に扱い、仕事を休め、というのがユダヤ教の伝統でありましたが、どうして集まるようになったのでしょうか。一つには、一種のコミュニティセンターであり、そうして民族としてのアイデンティティを確認し励まし合うことで、ユダヤ教は今日まで継承されてきたと言えるのではないか、と考えられています。
 
この安息日は、いまでいう土曜日にあたりました。正確には土曜日にさしかかる夜の始まりですから、金曜日の日没から安息日は始まります。その日は、一切の仕事をしてはならない、というのがユダヤ人たちの共通理解でした。ですから一定の距離以上を歩くことも禁じられているそうですが、あの会堂まで出向くことについては、問題がなかったのでしょうか。ご存じの方がいらしたら教えてください。
 
ところがキリスト教会は、いつからか、元来の安息日から一日遅れの日曜日に礼拝をするようになりました。キリストが蘇ったのがこの日曜の朝にあたる、ということを根拠としているようですが、新約聖書では強い根拠は見い出せません。「週の初めの日」という表現が、いまの日曜日を表していますが、皆が「パンを裂くために集まっている」(使徒20:7)とき、エウティコという青年がパウロの話に退屈して眠りこけて三階から落ちた、というような話が記録されています。それと、やはり「週の初めの日」に、収入に応じてエルサレム教会のための募金を集めておくように(コリント一16:2)とあることが見出されます。
 
ですからいまなお、旧約聖書の安息日である土曜日こそ礼拝の日だ、と主張する人たちもいます(特に、セブンスデー・アドベンチスト教会)。しかしキリストの復活の故に日曜日こそ安息日だ、とする、いまの当たり前の説明も、さて根拠という点では、どうなのでしょうか。しかしこの日曜日を休日とする文化がヨーロッパから世界にかなり広まってしまった以上、この日に教会に集まるということが、自然であるようにもなってしまいました。
 
ヨーロッパ諸国では、ほんとうに日曜日には何もものが買えないような時代もあったようです。休日、という規定があったためですが、それでも、日曜日に競技をしない、とオリンピック代表選手が出場を止めたニュースに、イギリス中が「狂信者」と罵声を浴びせたという話もありました。1924年のパリ・オリンピックの短距離の代表選手エリック・リデルの物語は、「炎のランナー」という邦題の映画でよく知られています。
 
リデルは、安息日を守る、という一心で、日曜日の競技をボイコットしました。代わりに、ユダヤ人の礼拝を守るハロルドと競技を交換し、二人とも金メダルに輝いたという物語でした。史実と少し違うようですが、映画としての名作だと言われています。私も大好きです。
 
エリックについて語るとまた長くなるのでここでやめますが、彼は「礼拝を守る」ために、栄誉を捨て、祖国の期待にも反したという形になりました。この「礼拝を守る」という言い方については、何故「守る」と言うのか、いろいろ特殊な事情が感じられます。またいつか、このことについてもお話しできたらと願っています。しかしともかく、日曜日に仕事をしなければならない人が現におり、クリスチャンとてそういう場合があるということで、涙ぐましい闘いを強いられている人がたくさんいるのですが、日曜日に毎週教会に行ける人々は、あまりそういう人の痛みについて考えることはないようにも見受けられます。
 
◆代替わりの危機
 
その教会ですが、最初に申し上げたように、これまでと変化しようとする場合に、変化を受け容れるタイプの人と、従来通りでありたいと願うタイプの人の意見が、衝突する場合があります。ですから、教会は、変化するときが危機だ、と言われることがあります。意見の違いが表面化しやすいため、どうしても波が立ってしまうのです。
 
新しい楽器を入れましょうか。いや、教会はオルガンであるべき。ギターなんてとんでもない。でも最近はギターも普通だし、若い人のためにも……。
 
新しい聖書が出ました。いまの時代のことをよく考えてつくられています。いや、教会も個人もなかなかの出費になる。これまで覚えた聖句が変わるなんて……。
 
教会内に分断が発生することもあるわけですが、なぜか分断が殆どないのが、牧師の交替。諸事情で牧師が替わることは当然あるわけですが、これは恐らく教会にとり、最大の危機だと私は見ています。それなのに、しばしばそれはさして議論も検討もされないように見えます。
 
牧師ではありませんが、国にとり、王が替わるというのも、なかなかの危機であっただろうと思われます。血筋の通った後継ぎならばともかく、自由に継承者を選ぶとなると、様々な思惑が絡みそうです。今日は、ダビデをイスラエルの人々が受け容れる場面をご紹介します。歴代誌11章です。
 
1:イスラエルのすべての人々はヘブロンのダビデのもとに集まり、こう言った。「御覧ください。私たちはあなたの骨肉です。
2:これまで、サウルが王であった時にも、イスラエルの進退を決めていたのはあなたです。あなたの神、主はあなたに仰せになりました。『わが民イスラエルを牧するのはあなただ。あなたがわが民イスラエルの指導者となる。』」
3:イスラエルの長老たちは皆、ヘブロンの王のもとに来た。ダビデはヘブロンで主の前に彼らと契約を結んだ。主がサムエルによって告げられたように、彼らはダビデに油を注いでイスラエルの王とした。
 
簡単に事情を説明しておきますと、イスラエルの人々は、近隣諸国との緊張関係から、それまで神が民族を治めるという形をやめて、他国と同様に「王」を立てることとしました。選ばれたのは、美男子で勇敢なサウル。しかし神に従うという点でサウルは失格者とされ、その従者だったダビデが、神の目の中ではすでに選ばれていました。ダビデは若くして、イスラエルでも天才的な戦闘能力で、イスラエル軍を勝利に導いていたのです。
 
サウルに妬まれたダビデは、サウルに命を狙われ、各地を逃げ惑います。そんな中、サウルが戦死したことを機に、エルサレムより南の由緒ある町ヘブロン(アブラハムに由来する)で、王に任じられます。まだエルサレムは、都として整備されていなかったのです。
 
ここで人々がダビデを慕って集まった、というのがこの場面です。言いますねぇ。サウルが王であった時にも、イスラエルは実質ダビデ様が動かしていた、と。そしてイスラエルの神、主もまた、ダビデ様をこそ王とお決めになっていたではありませんか。こうして人々はダビデと契約を結び、皆が認める王となった、というのです。
 
◆ダビデに対するあざとさ
 
しかしあざとくありませんか。サウルがいたときには、イスラエルの人々は、サウルにべったりでした。追われているダビデに対して無関心でした。サウルがダビデを呪う最高潮に達したとき、いわばならず者ばかり400人ほどだけがそばにいた、といいます(サムエル上22:2)。
 
それがいまや、あなたこそ我々の兄弟仲間ではありませんか、神もそう認めています、王となってください、と告げるのです。自分勝手過ぎないでしょうか。時に優勢な者に、昔から実は味方でしたよ、とでも言うように寄り添うのは、ちょっと狡くありませんか。
 
戦国時代の合戦でも、周囲の農民や軍は、どちらが優勢か見守っていて、やがて優勢なのが分かってくると、そちらに味方した、というような話もあります。生きるか死ぬかの瀬戸際ですから、それも知恵であるはずです。潔く主君に仕えて殉死する、というような美しい武士道が、戦いの本質ではなかっただろうとは思います。寝返りも当然、と。だとすれば、ダビデに対するこの庶民の身の翻し方というのも、当然と言えば当然なのでしょうか。
 
イスラエルは、大国に挟まれた地にあり、大国同士の争いのときには戦力がぶつかる地にもなり得ました。また、交通の要地でありました。そのために世界情勢に翻弄されることが多く、どちらの大国に付くかということで、国の運命が変わることが当たり前だったのです。列王記を見ると、そのかけひきがよく分かります。また、預言者エレミヤは、ユダの当局がエジプトに付くとしたことに、徹底的に反対しました。結果的に、エレミヤの指摘が正しかったようになりますが、皮肉なことに、エレミヤはエジプトに逃げなければならない羽目に陥ります。
 
しかしこのユダ王朝は、細々と続きます。そもそもダビデの子孫ではない王を立てた、北イスラエル王国のほうは、王が世襲することが殆どなく、せいぜい数代で終わり、謀反や政変で殺戮の嵐となるばかりでしたが、ダビデの子孫を王とした南ユダ王国は、その血筋がずっと続くのです。そしてマタイによる福音書の冒頭によると、その家系から、イエスが生まれることとなります。まるで新約聖書のイエスの登場のために、ダビデの家系が守られていたかのように見えます。
 
ただ、ダビデとて、安穏とした人生をその後送ったのではありません。サウル王のときには命を狙われ続けましたが、一時は、若き天才軍人として、イスラエルでもてはやされていたこともありました。いざ王になってから後も、息子アブシャロムに裏切られ王位を奪われもします。しかし、不思議と、ダビデは生き延びます。まるで、この子孫からキリストが出るために、なんとしても生かしておかねばならないかのようでした。
 
もしかすると、神ご自身も、ダビデに対して、一種の狡い計画をお持ちだったのかもしれません。
 
◆牧師
 
王の話に関わりすぎました。もう一度、教会の危機の話に戻りましょう。牧師の交替が、教会の最大の危機ではないか、ということ。しかし、それはあまり議論も検討もされないかのように見える、という意見を述べさせて戴きました。
 
教会を一から建てた牧師がいました。苦労して金を工面し、やっとのことで小さな民家を手に入れたのです。そこに信徒が集うようになり、宗教法人となると、ある意味で民主的な組織をつくらなければなりません。全財産を挙げて建てた教会でしたが、一部の理想を強要する信徒数人が、その牧師を教会から追い出してしまいました。特に悪いことをしたわけではないのでしたが、信仰についてケチをつけられたような形でした。
 
教会は、確かに牧師の所有物ではないでしょう。しかし、この話はあまりに信徒の側に情がなさすぎるような気がします。
 
他方、刑事事件を起こした牧師というのも、時折聞かれます。当然、牧師を続けることはできなくなります。そのとき、その教団は「とても残念です」というコメントは出しますが、その犯罪はその特定の個人が起こしたこと、というだけで終わってしまうのが普通です。教団が何か責任を覚える、というようなふうには、殆どなりません。確かにそうかもしれません。しかしそれでは、国会議員がどんなに拙いことをしても、政党は関係ありませんよ、というコメントを出すのと、同じにしか見えません。ふだん、議員の失言なり違法行為なりに対して、政党は責任を感じないのか、などと批判するようなキリスト教団体が、我が事となると、やっぱり同じようなことになるようにも見えてしまいます。
 
いえ、吊し上げようというのではなくて、そこに「赦し」というものがもしもあれば、キリスト教は、世間とは違うというように見えるかもしれない、と思うことがあるのです。牧師あるいは信徒の犯罪や道徳的な問題行為に対して、世間と同じかそれ以上の糾弾しかしないような教会組織の措置が、それでよいのかどうか、検討する余地があるのではないか、ということです。
 
逆に、そうした事件や問題を目立たせることがない者ならば、神学校さえ出ていたり、名の通った牧師を親にもっていたりすれば、誰でもよい、と迎える場合もあります。いえ、事件を起こしていてもよいのです。しかし、いざ雇ってもらえそうな運びになると、その事件を隠してしまい、疵のない人間であるかのように振舞うというあざとさを持ち、聖書の説明程度しかできない説教しか語れない者であっても、牧師となるとなれば大歓迎される現実があります。
 
痛みを知る者こそ、その痛みを神と人の前に打ち明け、そこに神の恵みが注がれるという方向性に、福音というものがあるように思えてならないのですが、如何でしょうか。牧師のなり手が少ない中では、非常に低いレベルで、「金の卵」扱いされている現状を、憂えます。私たちは、何を許すべきなのでしょうか。何を許してはならないのでしょうか。それを決めるレベルが、人間の損得次第ということになっているのではないか、もっと自らに問い直さなければならないように、思えてなりません。
 
◆死にゆく教会
 
牧師を招聘する、と言います。招き、雇い入れることです。教会によって、その過程は異なると思いますが、ある教会では、説教をした録音をひとつ渡され、あとはいわゆる履歴書だけが、条件でした。録音は、一部の役員だけが聞きました。別に悪くないんじゃないの、ということになると、教会総会にかけて、多数決を採ることで、牧師招聘が決まります。
 
その説教というものの意義を聞き分けられる人が、どのくらいいたでしょうか。もしその本質を見破ることができた人がいたとしても、聞き分けられない多数の人がオーケーを出せば、それで決まってしまいます。
 
もちろん、善良な牧師が多いことは、認めます。しかし私は、こうした感じで、とんでもない人物を牧師として立ててしまった、あるいは立てる寸前に至った、そういう教会を複数知っています。これでは、教会が死んでいくだけです。
 
えてして、議員や首長に投票するというのも、誰に入れてよいか分からない、という人がいます。私もそういう場合があります。世間でよさそうだと言われているとか、尊敬する人が支持しているとか、そういう理由で、人任せで投票をする、ということはないでしょうか。教会の決定も、そのような具合になされている可能性があると思います。教会に属する一人ひとりが、重い責任を負っている、という意識が、殆どないように見えます。
 
私も反省があります。それは私自身の経験からなのです。途中からその教会に加わったとき、周りの人たちの評判で、あの人はいい人だ、という雰囲気がすでにできています。それを私もすっかり信用してしまっていました。しかし後に、とんでもない人物であることが分かりました。教会を無邪気に破壊したのです。そのときになって、その人物が信仰も何もなく、自己本位でしかないことが明らかになりました。が、私はそれまで、執事選出のためにその人に投票していたのです。
 
教会員は、日常の礼拝で、教会員たちが、そして教会というものが、何を求めているのか、もっと意識的に考えておく必要があると思うのです。ただ仲良し倶楽部のように話ができればそれでよいのか。いえ、それも大切なことです。けれども、教会は仲良し倶楽部ではないのです。
 
◆教会を建てるもの
 
教会は何を求めているのでしょう。その教会によって様々だと思われます。ですから、ここではいま、一般的な話しかできません。直ちに食や住を必要としている人を助けるのも大切な役割です。結果的に助けられなかったとしても、何らかの形で味方をしているというのも、教会の使命でありましょう。
 
私は、教会は、「命を与えるところ」だと見なしています。もちろんそれは建物のことをいうのではありません。神を信じる人々の共同体として、聖書の中に、命のことばがあるのだと信頼して、それを互いの中に浸透させ、またいまは教会の外にいる人々にもその命を与えるべく、高いところに灯を置くようにする、それが教会ではないか、と思っています。
 
26:きょうだいたち、それではどうすればよいでしょうか。あなたがたが集まるときには、それぞれほめ歌を歌い、教えを説き、啓示を語り、異言を語り、それを解き明かしますが、すべては教会を造り上げるためにすべきです。
 
もう一度パウロの言葉を取り上げました。「集まる」ところが教会だとすると、ここにおよそ三つの注目点があるように感じられます。
 
・歌うこと。神を賛美します。歌の効用はいまとやかく申しません。神を称えるのです。
・教えを説き、啓示を語る。聖書の言葉を大切に聴くことです。説教を大切にします。
・異言を語り説き明かす。これは単純にできませんが、互いに説明するならば、ひとつの教育を思い浮かべたいと考えます。
 
もちろん、これらに終わる必要はありません。社会的に困窮している人や苦しんでいる人を助けたいとも思います。が、まずは教会内で、困っている仲間のために援助したり、祈ったりということからも始められるでしょう。そのためには、仲良し倶楽部であろうという方向性も、間違っていようはずがありません。
 
でも、けっこう信頼し合える人が集まるからということで、毎週顔を合わせては、聖書や教会とは関係のないお喋りだけで満足して帰るだけ、というのは寂しいものです。しかもそのとき、説教というものを、お義理で聞く、という場合も多かろうと思われます。説教要旨もせいぜいちらりと目を通す程度。説教は殆どまともに聞かず、ただ時が過ぎるのを待つばかり。礼拝後、説教内容について質問をしたり、感想を述べ合うようなことも全くなく、「はいはい、そうですね」とだけ受け取っておけば十分の毎週。次の日まで、説教の内容を覚えていることもありません。そんなことは、ないでしょうか。
 
でも中には、説教で語られたことを、強い心の支えにする人もいます。一週間、これで自分は生きていける、と握りしめるのです。そして、激務や辛い日常の生活に戻って行く、というわけですが、それほどに、語られる聖書の言葉は、命のことばとなりうるものです。いえ、命のことばであるはずです。
 
説教とは、教会の礼拝を飾る、ただのプログラムなのでしょうか。要旨を読みもしないし、まともに聞きもしない。なんとなく聖書の話を聞いていれば御利益があるかのように、その場にいたら恵まれる、という程度のものなのでしょうか。それは、命を与えていることになるのでしょうか。あなたは、それで命を与えられているのでしょうか。
 
今回は、あまり信仰の励みになるようなお話をすることができませんでした。その点は、申し訳ないとしか述べることができません。けれども、教会と名のつくところが、「これまでと同じようであれば」だけの惰性を良しとしているとき、ずるずると堕ちていくことに、誰かが気づき、その気づきに周りも応え、なんとか食い止める必要があると思うのです。教会を立て直すための、大切な気づきのきっかけになれば、との願いをこめてお話をしました。
 
集まるとき、私たちは何を見、何を聴いているのか、改めて省みたいと思います。イエス・キリストを見、神の言葉を聴いている、というひとつの回答があろうかと思うのですが、それについて、あなたはどうお感じになるでしょうか。いったい、教会を建てるものは、何なのか、一人ひとりが祈って戴きたいと願っています。

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