隣人への憐れみは裁きの対極
ヤコブ2:8-13
「隣人を自分のように愛しなさい」と聖書に従ってこれを実行しているのなら、それでよいのだ。ヤコブはそのように言っているように見えます。レビ19:18に由来するものと思われます。しかしルカ伝のあのサマリア人の話のところで、イエスは、これを永遠の命のための律法だと答えた神学者に、これを実行せよ、と言い渡したのでした。
そんなことは知っている、と自惚れていた神学者に対して、このサマリア人と同じようにせよ、と言ったのです。自分が見下していたサマリア人なんかと同じことなどできるものか、と思ったでしょうか。私には分かりません。反応を、ルカは記録していないのです。そうであればこの反応は、読者一人ひとりが答えを出すべきなのでしょう。
ルカ伝を通して神と出会った一人ひとりが、自分なりの回答を出すべきなのです。しかしヤコブはここで、実行しているなら結構なことだ、と軽く流しています。本当に実行できている者があると思ってのことでしょうか。ここでヤコブが言いたいのは、人の差別の問題であるはずです。人を分け隔てするのは罪だ、と言っているのです。
直前で、見窄らしい恰好の人が教会に来たとき、冷ややかな待遇をした例を、かなり強烈に挙げていました。こんなことをするなら、それは罪だ、有罪だ、と言うのです。憐れみをかけないということ一つだけでも、蔑ろにすることで、あなたは法律違反をやってしまっているのだ、と指摘しているわけです。姦淫も殺人も、その説明のための例です。
「自由の律法」がいずれあなたを裁くでしょう。そのことを忘れずに、神の前での態度のように語りなさい、そして行いなさい。自由な行動があなたの運命を定める、と言っているにも等しいように聞こえます。しかしそのとき、憐れみをかけなかったならば、神の裁きにおいても憐れみを受けるようにはならないだろう、とヤコブは告げています。
神の裁きに対しても、憐れみを考えることは必要です。ヤコブは、口先だけの信仰について、とことん手厳しく扱います。それは、決してルターが毛嫌いしたように、信仰を付随物と考えてのことではないように思われます。行いがなければその信仰は死んでいる、そういう行いの源の憐れみは、信仰と別のところにあるとは思えないからです。
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