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失言とされない公言

以前、ある原稿を依頼されたときのことである。キリスト教関係の季刊誌である。そのグループの夏の子どもキャンプの教案であった。経験のないことだったので、編集者とメールで幾度も相談しながら、励まされつつ執筆を進めた。
 
だが、あるところで編集者に、何か違和感を覚えるということで、注意を戴いた。――その聖書の内容の説明が殊更に間違っていることはないのだが、そこで例示されたことについて、実際にそれを職業としている人がいる以上、その人がその文章を読んだら、不快に感じるのではないだろうか、というものだった。
 
私は、自分の視点の偏りに気づかされた。それなりに配慮をしつつ文章を認めていたつもりだったが、言われる通りだった。もちろん悪気はないし、見下したような書き方ではないつもりだった。だが、確かに当事者にとっては、気持ちのよいものではないだろう。むしろ、差別感覚をそこに見るかもしれないというのは、その通りだった。
 
一般に公言された言葉は、誰が見るか知れない。難しいことだが、どういう立場の人がそれを読むか、聞くか、ということへの配慮が必要である。もちろんそれは、何らかの批判や忠告のようなものをしてはいけない、という意味ではない。実は根拠がないのに、意図的にヘイトを繰り返すようなことは論外であるにせよ、いまでは「マイクロアグレッション」と呼ばれる、言葉の暴力について警戒する考えが求められるのである。
 
政治家の「失言」が時折報じられる。問題発言だということで、マスコミが大きく取り上げる。政敵からすれば、批判の矢を向けるべき場面である。ただ、発言した当人にすれば、その場面で目の前にいる人に対しては、ユーモアだと思って口にしたことであるのではないだろうか。いわゆる「リップサービス」である。
 
だが、そこにいる人々へのリップサービスのつもりが、そこにいる人々の中にも激しく傷つけられる人がいるかもしれないし、その場にいた人が「それはユーモアだ」と笑い、同様にまたそうした人を傷つけることを平気で言うようなことにつながるとすれば、「その場だけ」という言い訳は通用しなくなるであろう。公言であるならば、それは失言という軽い響きの評価をしてはならない
 
もちろん、私的な会話でそのような冗談を言ってはならない、などとカタいことを言おうとしているのではない。たとえば我が家には、医療従事者がいる。いままたコロナウイルス感染症の患者が激増していて大変なのだが、それとは別に、糖質を多く採るということについては、注意しなければならないと言われている現状がある。が、たまにはその手の美味しいものを食べたいときがある。「本当はいけないけどね……」などと言いながら、味わうということが、ないわけではない(もちろんその一口が命取りになるようなレベルの話ではない)。
 
だが、公言はそれとは違う。医療従事者は、職場で患者に対して、「甘いものを食べてもいいですよ」と軽々しく言うようなことをしてはならない。たとえ冗談のつもりでも、言ってはならないし、言わない。
 
教会での説教もまた、そうした公言のひとつであろう。もしも、「健康診断にしばらく行ったことがなかった」などと、詫びるような言い方ではなく、当たり前のように説教者が言ったとしたら、どうだろう。「なんだ、そんなに行かなくてもいいものなのか」と受け取る人がいるかもしれないのではないだろうか。
 
また、「バリウム検査でゲップが出るのは当たり前だから、出たことを覚られないようにした」とか「生活習慣やカロリーについてアドバイスを受けた直後に、腹が減ったのでカロリーの高いものを食べた」とかということを、笑わせるように言うようなことがもしもあったら、これはもうふざけたと呼ぶしかない以上に、医療従事者を馬鹿にしているようなものと受け取られた然るべきではないだろうか。
 
医療従事者は、患者や人々の健康をつねに考え、働いている。そのための指導をし、健康増進を使命としている。そこまで理想を描かなくても、これを無視して健康を害した人々が、医療機関にどっと押し寄せることを回避しようと考えている。病院や保健医療が成り立たなくなりかねないからだ。それを私たちは、必ずしも個人の不注意だけではなかったにしろ、コロナ禍で学んだのではなかったか。先日も、激辛の菓子で高校生が病院に集団で搬送されている。医療機関としては、こうしたことは「やめてほしい」の一言である。
 
保健業務に対する冒涜を、笑いのネタに、礼拝説教で堂々と語るという神経が分からない。そして、「皆さんは健康に気をつけてください」などと、他人にだけ重荷を負わせるようなことで締め括ったつもりになっていたとしたら、もう目も当てられない。「牧師なんてのは、空想話を信じさせようと人を騙すのが仕事だ」と笑いをとっている場に同席しても、なんとも思わないだろうか。もちろん「救われていない人間の戯言だ」とにやにやしながら聞いていたとしたら、もはや論外である。他方、どうしてこうしたデタラメなことがあっても、聞く側が気づかないのか、あるいは聞く側が許しているのか、一緒になって笑っているのはどうしてだか、不思議でならない。
 
こうした場でのその手の悪質なジョークに対して、平気で笑うことができる人には、なりたくない。それは、その場に居合わせない人を虐げることが平気でできることへ、と必ずつながる。そう言われたら、そんなつもりではなかった、という弁明が必ずあるものだが、このような問題は、自分では気づいていない、というところが最も悪いのである。
 
聖書を適切に語る人がいなくなると、教会というところで人々は、神の言葉の説教を聞くことがなくなってゆく。そうなると、教会も人も、どんどん荒んでゆく。そして、イエスの敵だったような者たちに、ますます近づいてゆくことになるだろう。
 
しかしまたこれは、自分への戒めとして、これを書き留めることとする。

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