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人生の滲む説教

今週もまた諸事情で、ゲストの説教者となった。あまり立ち入ったことをご紹介するのは控えたいが、人生経験の多い女性で、配偶者が牧師である。また、ご本人も牧師経験があるという。それはずいぶんなベテランなのだろうと思ったが、話の中で、神学校そのものは比較的最近卒業しているらしい。その神学生時代に、この教会と関わりがあったということで、本日の礼拝説教を担うことになったのであると思う。
 
話し方は淡々としているが、通る声で、はっきりと発音する。スポルジョンも指摘するが、服装などのルックスもさることながら、声という要素は、説教者にとり非常にウェイトのあるものなのだ。その意味では、もっと大きな声であってもよかったかもしれないが、その落ち着いた語りぶりには、信用を得るための魅力が十分備わっていた。
 
取り上げられた聖書箇所は、申命記から短い箇所と、ローマ書からまとまった箇所。それぞれが、説教内容に分かりやすくマッチしていた。どこを説教箇所にするかという選択そのものが、実は説教の大きな要素なのだということが分かる。多少ベタでもいい。会衆が、確かにその聖書の言葉がメッセージの基底にあるのだ、ということに気づくことが肝腎である。それでこそ、その説教において、神の言葉が出来事となっていくというものである。
 
骨子は、信仰による義、信仰により救われるという、キリスト教の根幹とも言えるメッセージであったと言えるだろう。パウロの手紙を丁寧に辿ってそれを明らかにしてゆく。
 
説教というものをよく知らない人が陥りがちなことがある。聖書の言葉の解説に終始するのである。甚だしい場合には、聖書をひとつ読んで「~とあります」と言っては、ちょっとしたコメントを加えたら、なにがしかのメッセージができたと勘違いしていることすらある。
 
問題は、説教者がその言葉から何を聞いたか、である。神からどのようなチャレンジを受け、そして神に対して応答したか。そのような神との真剣勝負の結果を、会衆に半ば実況するかのように、教えてくれたらありがたい。
 
しかも、一定の経験の重なった説教者である。これまでの様々な場面で、今日開かれたパウロの手紙を聞いてきたはずである。時にそれに慰められ、時にそれと闘い、そして何よりも、それを通じて神に救われたことがあるに違いない。人生の中での、そのような聖書の言葉との出会い、神との交わり、そうしたものが背景にあるからこそ、なにげない解説のようなものにも、息吹が、命が感じられるものなのである。
 
もちろん本日の説教は、最終的に「信仰」というものの確認に向かう。その中で説教者は、福音なるものを自分の生き方として受け止め、神の力を受けてきたという確信を伴いながら、神との特別な関係の中に迎え入れられた自身の歩みを、なんとか言葉で表現しようとする。実際の体験があるからこそ、それを伝えるための言葉を選ぶことになる。こう言っても伝わらない、ああ言っても十分ではない、それでも、何かあの感動を、なんとか言葉にしたいものだ、と言葉を探す。それはなかなか見つからないかもしれない。けれども、聞く耳をもつならば、それは感じることができる。滲み出てくるもの、滲み出てこないけれども伝えようとするもの、それが、彷徨うような言葉であっても、その言葉をつなぐものとして、その言葉の出所として、同じような経験をした者には、間違いなく響いてくるのである。
 
学校の教科書のように、一定の筋の通った説明を並べておけば、確かに尤もらしく立派な説明のように見えるかもしれない。なるほど間違ったことは言われていない、と受け止められるかもしれない。教師がそれを棒読みしておけば、さしあたり嘘は教えていないと言える。しかし、教師がその事柄から経験した感動やそこに生まれた情熱などは、知識以上のものをもたらすことだろう。
 
教義に適した言葉を並べれば説教になるのではない。なんとも言いようもないものとして、迷っていてもいい。スムーズな言葉がつながつてこなくてもいい。それらの言葉の間をつなぐものは、分かる者には分かる。それを「霊」の働きと呼んでもいい。
 
たとえば今日の説教の場合、ローマ書ではない、つまり聖書箇所として朗読されなかった聖書の言葉が登場していた。もちろん、そうしたことは普通よくあることであるし、立体的に聖書を語り描くためには、当然必要だとも言える。ただここで、まるで今日の説教の中心聖句であるかのように、幾度も口をついて出ざるを得なかった、というような言葉があったのだ。
 
生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。(ガラテヤ2:20)
 
これが、説教の冒頭で、また説教の中心にあたる頃に、そして説教の締め括りに、決して「引用」という形ではなく、自然に示されていたのである。
 
説教者が、どんな思いを以て、そしてどんな信仰を以て、この説教を語っているかが、熱く伝わってきた。そして、説教を受け止めていくならば誰もが、それがひとつの個人的な信仰の問題であることを知ると共に、そうした人々の集合として「教会」の問題でもあることを、感じたに違いない。
 
締め括りでは、本日の内容を少し超え出るような境地にまで案内するような言葉も登場したように聞こえた。もし再びこの教会でこの説教者が語る機会があったら、きっとそこから始まるに違いない、と期待感を抱かせる仕掛けであるのかしら、と私は密かに愉しみを覚えたのであった。

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