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雀の値段

恐れるべき相手は人間ではない。神はどんな方であるか考えてみよ。この神への恐れは、また「畏れ」とも書くことができるだろう。たくさんの雀よりもはるかにまさっているのだから、妙な恐怖を懐く必要がない、というようなイエスの教えがある。そこに、よく知られた言葉がある。
 
五羽の雀は二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神の前で忘れられてはいない。(ルカ12:6)
 
「アサリオン」というのはローマの貨幣である。よく現代の価値に換算するということがなされるが、各方面の説明に多少ばらつきがある。ぼんやり把握するならば、500円から1000円ほどになるのだろうか。そうすると、この雀というのは、とびきり安いというものではないようにも思える。
 
よく、この話の雀は取るに足らないものだ、という説明がついている。もちろん概ね同意できるのだが、私には決して粗末にできるほど安いようには思えない。5羽で2アサリオンというところから1羽分と計算した200円から400円分の肉を食べると、けっこうなおかずとなることだろう。
 
問題はむしろ、その1羽さえ、神に忘れられている存在ではない、ということのほうではないか。神がどの1羽でもちゃんとご存じであることから、それに優る人間のことを忘れてしまうはずがないだろう、というのである。
 
いまのはルカによる福音書であったが、同じシチュエーションを描いたマタイによる福音書も比較してみよう。
 
二羽の雀は一アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。(マタイ10:29)
 
こちらは、神に忘れられていない、という言い方ではなくて、父の許しなくば地に落ちない、それほどにちゃんとその運命を神が知っている、としている。マタイは十戒を意識してか、安易に「神」という呼称を用いないから、「父」と呼んでいることは、特に問題にすることはない。ただ、この訳に意を唱える人がいる。原文には「許し」という語がない、というのだ。
 
つまり「父なしには地に落ちぬ」とギリシア語で書いてあるのであって、「許し」という限定はよろしくない、というのである。それはそれでよいのだが、だからと言って、それ故にこの「父なしに」のフレーズは、「これこれの意味である」とまた規定してしまうと、これまた一つの限定になってしまうだろう。
 
多少舌足らずの表現だとは言えるだろうが、「父との関係なしに」という辺りで捉えてみてはどうだろう。雀は1羽たりとも、神と無関係に死ぬようなものではないのだ、というわけである。そうなると、結局ルカのように、神に忘れられていない、ということと同じような意味であることになる。もちろん、どちらがどう改訂したかとか、別の資料がどうだったとか、そうしたことをここから決めることはできない。優れた学者が調べて教えてくださったらいい。
 
ところが、このルカとマタイを見比べたとき、もっと大きな違いに、誰もがもう気づいているはずである。ルカは5羽で2アサリオン、マタイは2羽で1アサリオンと数字が違っていることである。店が違ったのだろうか。ルカだと1羽あたり0.4アサリオン、マタイだと1羽あたり0.5アサリオンとなり、ルカの方が買う方からすればお得である。どうして文献としてこうなったかは、もちろん私如きには分からない。
 
また、ルカにはルカの思惑があり、マタイにはマタイの理解があるということも当然である。これらをどちらも綜合して考える、というのは、聖書を文献として捉えるためにはよろしくないことである。だが、聖書がせっかくこうしてひとつにまとめられており、それは神からのメッセージである、と大きく捉えるならば、ルカとマタイとを比較しながら、何らかの神からの声を聞くことがあってもよいのではないか、と私は考える。二つのレートの違いが、いま私たちの目の前に提示されている、というところから、私にふとある声が聞こえてきたのである。
 
ルカは5羽で2アサリオン、マタイは2羽で1アサリオン。私たちがイメージしやすいように変換すると、5本入って200円のエリンギと、2本で100円のエリンギ、というのはどうだろう。少量でよいのなら100円で済ませるだろうが、多くても「お得感」のある買物をしてよいなら、200円のほうを購入するのではないか。こちらは、200円を支払えば、エリンギが1本お得なのである。1本おまけがついてくるのである。
 
雀に戻そう。ルカの買い方だと、雀が1羽おまけについてきたことになる。その1羽は、おまけなのである。本来いなくてよかったものが、おまけとして、いわば無料なままに付けられているのである。
 
自分の存在意義は何だろう。いてもいなくても世界は何も変わらないじゃないか。自分なんて、いてもいなくてもよいのだ。意味もなく、おまけとして生まれてきてしまったのではないか。いないほうがよかった、生まれてこないほうがよかったのではないか。――そんな考え方がある。そう考えてしまう人がいる。
 
だが、その1羽さえ、神は忘れていない、神と無関係に命が失われるようなことはない、聖書はそんなふうに言っているように、私には聞こえたのである。
 
もちろん、それだったら2羽で1アサリオンとしたマタイのほうに、「その一羽さえ」とあることが説明できない、などと指摘する人もいるだろう。しかし私はそのような次元で聖書から声を聞いたのではない。一つひとつの文献にあるかないか、単数か複数か、動詞の時制は何か、そのような議論をしようとしているのではない。人間的な学問などしていない。ルカとマタイと、両方が重なって、ハーモニーとして聞こえたときに初めて味わえる音を聴いただけなのである。
 
おまけの1羽は、計算上、値段が全く付けられていなかったものである。値段すらつかないようなもの、完全に無価値なもの、それも神は決して忘れない。このように能天気に受け止めたとしたら、少し勇気が出てくるのではないか。そう思えたら、いま顎を上げて天を見上げ、笑顔になれた人はいないだろうか。
 
聖書はそのようにして、人を生かすものなのである。

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