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祈りの道へ (マタイ6:5-8, 列王記上8:22-53)

◆無駄な祈りなのか

(これは架空の話です)旅客機が消息を絶った。どうやらあの人が、その便に乗っている。ああ、大変だ。そのとき、きっとひとは祈るでしょう。「どうか無事でありますように。」
 
続報が入る。飛行機は墜落したらしい。ああ、もう胸が引き裂かれそうだ。それでも、ひとは祈るでしょう。「どうか無事でありますように。」
 
1985年8月12日の日航機事故は、一機としては世界最大の航空機事故となりました。乗客乗員524名が、群馬県の御巣鷹の尾根に墜落したジャンボ機に乗っていました。このときも、多くの人が祈ったことでしょう。絶望的な惨状でしたが、墜落後約2時間経って救援機が現場に到着、夜が明けて16時間後に、生存者を発見しました。重症を負ってはいましたが、4人が救出されます。
 
祈りが現実となったのは、524人の中の4人でした。しかし、誰も生きてはいないだろう、というような惨状において、4人は、生きていたのです。
 
「無事でありますように」と祈られた他の人々は、その祈られていたとき、もうすでに命がありませんでした。世界的歌手や宝塚スター、電鉄の社長などの名前も、犠牲者の中に数えられていました。
 
祈りは、事故が起きた後にも、捧げられていました。墜落したとの報道の前に、すでに行方不明と報じられたとき、520人は亡くなっていました。そのときは、まだ「不明」であるだけに、希望の祈りだったことでしょう。
 
でも、すでに事は決まっていたのです。「無事でありますように」と祈ったところで、その時点ですでに、結末が出ていました。祈りにより、事態が変わるわけではありませんでした。
 
では、この祈りは、何だったのでしょうか。果たして、それは無駄な祈りだったのでしょうか。神ですら、時間を戻すことはできなかった、ということで、祈ってもどうしようもないことがある、ということなのでしょうか。
 
すると、「それは『祈り』ではなく、『願い』なのだ。願いならば、叶わないことも当然あるものだ」などという声が聞こえてくるかもしれません。いったい祈りとは何なのか、祈りを信仰生活の中心に置くキリスト者としては、考えさせられるものがあります。ただ、ここでその秘密を解明しよう、などという目論見はありません。
 
私たちが、祈りの体験をし、豊かな祈りの時を経験すること、せいぜいそれを望む気持ちで、聖書の言葉を聞きたいと思いました。
 

◆祈りの言葉

言い伝えられている、昔からの素晴らしい祈りがあります。フランシスコの祈りは伝統的に敬愛されていますし、ニーバーの祈りは新しいけれども、多くの信徒に愛されています。
 
「祈祷書」というものがあります。教会で、このように祈れ、という文面が集められているのです。使い方を私は実際には知りませんが、特にカトリックでは、それがそのまま信徒の日々の祈りの文言となることが勧められているのではないかと思います。教会の礼拝においても、祈りがあるとき、そういうのを利用するとも聞いていますが、そのときには「典礼文」という、改まった呼び方があるようです。考えてみれば、プロテスタントでも、「主の祈り」は決まり文句として共に唱えますし、「使徒信条」もそういうものだと位置づけられますから、何らかの形で「祈り」は定型である場合があることは確かです。
 
定型である必要はないのですが、プロテスタント教会の礼拝でよく見られるのが、「公祷」というもの。司会者か信徒か、誰かが礼拝のための祈りを献げる時が与えられています。会衆全体の代表者として、ブログラムの中で「祈り」を担うのです。私は、その場で祈るというあり方の中で育ちましたので、その後、予め祈りの役が決められていて、家で文面を書き、それを読み上げるという形での「公祷」が案外多いことに、正直驚きました。
 
カトリックだと、人間が祈りの言葉を決めるというよりは、教会が公認した言葉が望ましい、という考え方があるのかもしれません。どうしても神と人との間に司祭という役割が入るような構造がありますから、祈りも個人が公の場で出てくるのは好ましくないと考えられているのでしょうか。しかし、プロテスタントだと、それよりは個人の信仰がそこで露わになる、という姿が好ましいようにも見えます。それでも、余りにも「読み上げ」観が目立つと、儀式のための儀式というふうに思えないこともありません。もちろん、それが悪いなどと申しているのではありませんけれども。
 

◆すばらしい祈り

いま申し上げたように、私は、礼拝のプログラムの一つとしての公祷においても、自由に祈る環境で育てられました。説教後の祈りでは、「それでは今日の礼拝のために、◯◯さん、お祈りをお願いします」と、当てられるのが通例でしたから、ぼうっと礼拝説教を聴いているわけにはゆきません。司会者の一存で当てるわけですが、それは確かに神から示されるというようなものでした。
 
説教前の祈りでは、一人ではなく、数人が立て続けに祈ることになります。台本なしですから、その「呼吸」というのも微妙でしたが、不思議と混乱は起こりませんでした。その中で、教会には後から加わったのですが、それはそれは立派な祈りを祈る人がいました。引っ越してきたらしく、教会には、比較的新しく来た方でした。
 
朗々と、祈るのです。よくぞあれほど次から次へと、延々と美文がその口から立て続けに零れてくるのだろう、と聞き惚れるような、見事な信仰告白と神への賛美の言葉でした。そしてそれが、終わらないのです。このまま1時間でも続くのではないか、と、私などには苦痛に思えてくることがありましたが、きっと他の人たちもそうだったのではないでしょうか。まさか、「もうやめて」などとも言えないでしょうから、誰も何も話題にしませんでした。
 
5分以内で、その祈りが終わったことはなかっただろうと思います。それでもその方は弁えて、何十分も続けることはしませんでしたが、それにしても周囲にしてみれば、エンドレスも覚悟するような情況でした。
 
その人は、ひとにも温厚でした。にこにこと振る舞って、ユニークなことも言うし、決して話しにくい人ではありませんでした。ただ、祈りが綿密で厳しい口調であったのは事実でした。それが、あるとき――それは私がその地を離れてからしばらく後のことでしたが――、牧師のある行動に対して、奇妙な理想を押しつけることをしたのです。それにわずかでもそぐわない点があると、無理な注文をつけて、牧師を追い出したのでした。その牧師が個人的にずいぶんと苦労して建てた教会であることを承知の上で、それへのリスペクトも何もなく、教会員を自分の背中に呼び込んで、背任の大合唱を生み出したのです。
 

◆ソロモンの祈り①

きっと、今日お読みしましたソロモンの祈りのときにも、途中でへたりこんだ民がいたのではないか、という妙な想像をしてしまいます。実に長い。長い、長い祈りが献げられました。これは、神殿建設に伴うもので、いまでいう「献堂式」というものに値するものでしょう。
 
しかも、イスラエルにとり、この神殿を建てるということは、民族の悲願でした。ついに王国として成立させたダビデ王ですら、建設には至らなかったのです。そのダビデ王の後を継いだ息子のソロモンが、ついに民族の夢を実現しました。莫大な富と権力を用いて作り上げた、見事な神殿でした。その献堂式とあっては、誰もが誇らしい気持ちで、正に夢を見ているような思いだったことでしょう。
 
それはソロモンも同じ。長い長い祈りが始まります。この後、その神殿は四百年を俟たずして無惨に破壊される運命にありました。恐らくこの歴史書の記録者も、それを知っています。そして民族のエリートたちが、遠いバビロニア帝国に連行されたことも。
 
2016年の熊本地震で、熊本城が一部壊れたことは、熊本県民の心を大いに傷つけました。実際の人々の被害ももちろん、悲しく辛いものです。しかし、ある意味で人々の生活と何の関係もない、熊本城の損壊は、精神的に大きなショックだったのです。
 
2019年の首里城の火災もそうでした。沖縄県民のスピリットが焼失したのです。その半年前には、パリのノートルダム寺院も燃えました。これも、精神的に大きなダメージを与えたに違いありません。
 
22:ソロモンは主の祭壇の前に立ち、イスラエルの全会衆に向かい、天に向かって両手を広げ、
23:祈った。
 
列王記上8章の途中から、私たちは読み始めました。30節にわたる長さなので、すべてを改めて引用することは致しません。ソロモンはここからまず、神を称えます。神が民族のためになしてくださった、誠実な導きを思い返します。ここまでよく連れてきてくださいました。
 
神が、こんな人の手による建築物に過ぎない神殿になど、本当に入ってしまわれるようなことはない、それは重々承知している、とソロモンは告げます。
 
そう言えば、キリスト教信者は、しばしば世の人々の信仰を「偶像崇拝」と呼びます。どうかすると、それが見下しているようにも見えるのですが、果たして、彼らがバカにするような形で、人々は偶像を信仰しているのでしょうか。人は分かっているのです。木や石を拝んでいるかのように見えても、それが神でないことくらいは、承知しています。一つの象徴であったり、それを通して見えない神仏と通ずるというような意識がそこにあるのですから、キリスト教のスピリットと、実のところそんなに大きな差異はないように見ることも可能だと思うのです。
 
むしろ、キリスト教が見えない神を拝しているつもりでも、そして現実に木や石の像を拝んでいるのではなくても、そこに隠れた「偶像」がある、という可能性があると思うのです。時に、自分自身を神として拝んでいる、ということさえ、あるのだと私は睨んでいますし、それは決して珍しいことではない、とも予想しています。そのことについては、これまでも幾度か触れてきました。
 
ソロモンも、警戒するのです。ただ、ここは神殿。神殿という場所で、ひとが祈るようにするのは、悪いことではありません。そこに「主の名」があるのですから、主を称えるために神殿に向かって祈るということにも、ひとつの信仰の姿があると言えるのです。だから、この神殿が大切にされている所を見れば、このイスラエルの民が、神をどのように大切に扱い、崇拝しているか、分かるというものです。人々の信仰の証しになる、と考えられるわけです。
 
イエス・キリストが現れてからは、私たちもまた、神の神殿に値するのだと見られるようにもなりました。いえ、まずはイエス・キリストそのお方を、神殿という場に見つめたいような気もします。
 

◆ソロモンの祈り②

30:あなたの僕と、あなたの民イスラエルが、この所に向かって献げる願いを聞き入れてください。あなたは住まいである天からそれを聞いてください。聞いて、お赦しください。
 
祈りに耳を傾け、願いを聞いてください。これは、神仏に対して祈る信仰心にもある思いではないか、という気がします。ただ、このイスラエルの神は、日本人の信仰心からはつながらない、重要な点を有しています。ソロモンがここに、「聞いて、お赦しください」と言っている点です。
 
人が隣人に対して罪を犯したならば、そこに裁きがあるでしょう。そして、正しい者には報いがなければなりません。神の支配がここにあるなら、正義が勝利しなければならないはずです。イスラエルが戦いに敗れたとき、つまり罪を犯した故に負ける目に遭ったとき、神殿で祈るならば、罪を赦してください、とソロモンは祈るのでした。これは、バビロン捕囚のことを重ねて描いたものであるかもしれません。
 
罪を犯したそのときにこそ、祈るのです。罪の赦しを求めて、祈るのです。
 
罪のために、雨は降らないかもしれません。飢饉があるかもしれず、疫病も流行ります。捕囚もそうですが、敵に囲まれて災いが降りかかったときも、民族は神殿で、罪の赦しを主に求めなければならないのです。
 
ここにひとつ、興味ある表現があります。祈るときの姿勢、文字通り、体の恰好についてです。
 
38:あなたの民イスラエルが、皆それぞれ心に痛みを抱え、この神殿に向かって両手を広げて祈るなら、どのような祈りも、どのような願いも、
39:あなたは住まいである天でそれを聞いて赦し、答えてください。
 
お気づきになりましたか。「両手を広げて祈る」というのです。それが、神殿に向かって祈るかたちだというのです。もしかすると、両手を組んで、俯いて祈るのが当たり前だと思っていませんでしたか。でも、本来の祈りは、天を仰ぐものなのですね。しかも両手を挙げて。
 
以前、福岡の津屋崎に、「玄海彫刻の岬・恋の浦」と呼ばれる公園がありました。彫刻が自然の中にあちこち立っているのでしたが、その中に「祈り」を描いたものがありました。正教の伝道師のような恰好をして、両手を挙げ、天を見上げているのでした。
 
イスラエルの土地が、一般に緑豊かな自然というのでなく、荒れ野も多かったとするならば、神を思い神に呼びかけようとするとき、地上のものには目もくれず、天空を見上げることは、普通のことだったのかもしれません。ソロモンは、主の「住まいである天」という言い方をしています。空間的な天空だと決めつけるのはよろしくないと思いますが、人間より高いところにいるという捉え方は、それはそれでよいのではないでしょうか。
 

◆ソロモンの祈り③

41:また、あなたの民イスラエルに属していない、あなたの名のゆえに遠い国からやって来た外国人にも、同じようにしてください。
 
主に向かい、神殿を通して祈るのであれば、イスラエルという血筋に関わりなく、外国人の祈りも、同じように主は聞いてくださるのです。少なくともソロモンはそのように語っています。そうして、全地の民が、つまりすべての人類が、この主を礼拝する様子を思い浮かべていることになります。
 
また、これは「あなたの民が」と言っているのですが、どこかへ戦争に出かけ、主のために戦う最中に、遠い地であっても、このエルサレムの都と神殿の方角に向かって主に祈るなら、主はそれを聞いて答えてください、とも祈っています。
 
44:あなたの民が敵に向かって出陣し、あなたが遣わされる道において、あなたが選ばれたこの都と、私が御名のために建てたこの神殿の方角に向かって主に祈るなら、
45:あなたは天でその祈りと願いを聞き、その訴えに答えてください。
 
これは、もしかすると、その後世界各地に散ったイスラエルの民のこと、つまり「ディアスポラ」と呼ばれた人々のことを、記録者は頭に置いていることを示すのかもしれません。まるでメッカの方角を向いて祈るイスラムの人々のようですが、逆に言えば、イスラム教のムハンマドは、旧約聖書を知っており、イシュマエルの子孫が自分たちだ、とするように、旧約聖書を尊敬して扱っておりますから、当然このソロモンの祈りも知っているわけで、神殿の方角を向いて祈る、ということはこことつながっていても、不思議ではないことでしょう。
 
50:あなたに罪を犯した民と、民があなたに背いて犯したあらゆる過ちを赦してください。彼らを捕らえた者たちの前で民を憐れみ、捕らえた者たちが民を憐れむようにしてください。
 
実はこの前にも、「罪を犯さない者は一人もいませんから、人々はあなたに罪を犯し、あなたは怒ってその人たちを敵の手に渡されるでしょう」(46)という言葉がありました。「罪を犯さない者は一人もいません」というのは心に染みてきますが、ソロモンの祈りは、この終盤を迎えて、重く「罪」の問題と向き合っています。それだからまた、私たちはこの祈りの場面を受け取るときに、ソロモンを通じて私のために祈りが献げられているのだ、というふうにも感じます。
 
イスラエルの民の願いに目を向けてくださるように、と祈り、改めて、神はこの民を選び出して、ご自分の民としてくださったことに感謝をします。エジプトから導き出されたときの、モーセの出来事に戻ってきてから、祈りがついに終わります。祈りの最初の部分と見事に呼応しています。
 

◆祈りの道へ

さて、先ほど、「あなたが選ばれたこの都と、私が御名のために建てたこの神殿の方角に向かって主に祈るなら」(44)という箇所に注目しましたが、そのとき、イスラム教の祈りにも重ね合わせ、「神殿の方角」に向く点に関心を寄せました。
 
いま、私たちはこの「神殿の方角」のことなど、何も気にしないだろうと思います。神はどこにでもいるから、などと気楽に考えている面があるかもしれませんが、とにかく神殿はどちらの方角か、などと考えることはありません。
 
けれども、私は思うのです。この「神殿」とは何か。新約聖書では、私たちの身体が「神の神殿」である(コリント一6:19)などという表現もありました。しかし、パウロのその言葉には、脈絡からすると、このソロモンの場面に匹敵するような要素はありません。むしろここでは、神殿を向いて祈れ、ということがしきりに言われています。私たちは、どちらを向いて祈りますか。神の方? 確かにそうです。しかしその神に照準を合わせるとき、何を向いて祈るのですか。
 
イエス・キリストを見て祈るのではありませんか。神がここにおられる、という神殿は、イエス・キリストの姿と重ねることもできるのではないでしょうか。イエスを通して、イエスにおいて、祈るはずです。「イエス・キリストの名によって祈る」ことを、誰もがしているのです。
 
イエスの方を向く。そのイエスから受けた祈りが「主の祈り」ですが、それは次回からその祈りの言葉を受け止めていくことを予定しています。その備えとして、イエスが「主の祈り」を教える、その直前の箇所に目と心とを落としていくことにしましょう。それが今日のメッセージの結びです。
 
祈るときには、偽善者のように、人に見られることを意識して祈るものではない、というところがよく注目されます。また、くどくど異邦人のように祈ることはいけない、というところもよく知られています。私たちが必要なものを、神はすでにご存じだ、というからです。言葉が多くなると、恐らく自己満足が入り込んでくるのではないでしょうか。朗々とした祈りがすばらしいのではないのです。
 
ところがしかし、それらに挟まれたところに、さりげなく、秘密めいた言葉がありました。
 
6:あなたが祈るときは、奥の部屋に入って戸を閉め、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。
 
イエス自身、しばしば人の喧噪を離れ、寂しいところで祈っていたと言われています。イエスの祈る姿は、いつでも私たちの手本です。人の注目を受けたいような祈り方ではなく、「奥の部屋」で祈れ、とイエスが言います。「戸を閉め」て祈れ、と言います。あなたの父、すなわち神は、「隠れた所におられる」のだから、と言うのです。
 
もちろん、「人に見てもらおうと」する祈りの空しさを際立たせる表現です。しかし、それだけではなく、深い意味も感じ取りたいところです。たとえば、それはあなたの心の奥底、霊的な領域のことです。表向き、現象に左右されるものではなく、神と深いところでつながっている、正にその場所であるのかもしれません。
 
それは、あなたの外の、人間世界に露わにする必要はありません。あなたの隠れた所です。それは恥ずかしいことかもしれません。とても人前に出せないことであってもよいのです。ただ、それは神の前には明らかにされています。神に対して隠そうとすることは無用です。あなたの罪も、恥も、汚点も、黒歴史も、あなたと神との間をつなぐ道のためには、妨げにはなりません。むしろ、それを置くことによって初めて、神との間をつなぐ道が現れるのです。あなたの奥底の、その醜い罪があるからこそ、それを背負いに、イエス・キリストが来てくださるからです。イエスが、神との間につくられる、「祈り」という道となってくださるのです。

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