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レスポンス

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礼拝説教は、神の言葉。いのちある説教に対しては、それを受けていまここでおまえはどうするのだ、という問いかけがあります。何らかの形で、それへの応答を、祈りのように告げることが必要だ…
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#命

倒し、立ち上がらせる福音

大晦日だろうが元日だろうが、主の日は主の日である。長時間労働だとか2日連続では説教ができ…

たかぱん
6か月前
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一粒の麦と永遠の命

その日は、妻の父親の誕生日であった。2年前に亡くなった方であるが、誕生日を忘れないように…

たかぱん
8か月前

洗礼と命

私はかつて60分以上の礼拝説教が当然だった環境にいたこともあるので、50分ほどの説教をさほど…

たかぱん
1年前
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信仰とは何か

いったい時間とは何か。誰も私に尋ねないとき、私は分かっているつもりである。だが、尋ねられ…

たかぱん
1年前
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聖書を説かずして聖書が命となる

イエス・キリストだったら、何と言うだろうか。どうするだろうか。キリスト者は、しばしばそれ…

たかぱん
1年前
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今週、生きていける

夏期講習が始まっている。ふだんの日曜日は仕事に出ないことにしているが、夏期講習となると、…

たかぱん
1年前
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説教は命を与える

教会や宣教について、やたら「困難な時代」というフレーズを持ち出すと、説教になるというのは、思い違いである。その中で「信じていきましょう」「神に委ねて歩きましょう」としか結論が出なかったら、昭和期の教会学校である。もちろん、それが間違っていると言うつもりはない。   その間がないのだ。せいぜい、与えられた聖書箇所の説明を加えて、尤もらしい励ましで終わると、説教になるような気がするらしい。取り上げた聖書箇所を丁寧に辿り、説明する。一つひとつ「……とあります」と読んで、少しばかりコ