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レスポンス

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礼拝説教は、神の言葉。いのちある説教に対しては、それを受けていまここでおまえはどうするのだ、という問いかけがあります。何らかの形で、それへの応答を、祈りのように告げることが必要だ…
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#創世記

経験と淡々とした日常

教会に棺が入れられ、共に礼拝をする。もちろん、そこに置かれたのは魂そのものではないし、ま…

たかぱん
1年前
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信仰と希望

開かれたのは、アブラハムの試練の箇所。イサクを献げよと神が命じたことに、いわば素直に従っ…

たかぱん
1年前
3

見ることは信じること

近年、ハガルについての考察に出会うことが多くなった。私が男という立場でいるからだろうか、…

たかぱん
1年前
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破れ口に立つ

「破れ口」という訳語は、聖書協会共同訳では、ヨブ記30:14だけになってしまった。私の中で記…

たかぱん
1年前

思いを超えたところから

「カクテルパーティー効果」を思い出す。そこは、様々な声や音で雑然としたパーティ会場。だが…

たかぱん
1年前
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行くべきところ

その朝、子どもが授かることについて悩んでいた人から、よい知らせが届いた。やがて礼拝が始ま…

たかぱん
1年前
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信仰とは何か

いったい時間とは何か。誰も私に尋ねないとき、私は分かっているつもりである。だが、尋ねられていざ説明しようと思うと、自分が全く分かっていないことに気づく。正確ではないが、アウグスティヌスは「時間」について、このような契機から、その論を始めている。   いったい信仰とは何か。キリスト教や聖書の中心のことのようであり、誰もが熟知しているような顔をしてそこにあるが、さてそれは何か、と問うと答えることがまずできない。   それは「信じ仰ぐ」と漢語で表す。だが、原語の感覚は恐らく、「信」