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レスポンス

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礼拝説教は、神の言葉。いのちある説教に対しては、それを受けていまここでおまえはどうするのだ、という問いかけがあります。何らかの形で、それへの応答を、祈りのように告げることが必要だ…
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#十字架

子ろばに身を置いて思うこと

受難週を迎えるにあたり、十字架そのものよりは、エルサレム入城のほうが、選ぶ聖書箇所として…

たかぱん
3か月前
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河の流れのように

「人々は、わたしのことを何者だと言っているか」(マルコ8:27)とイエスが問う。弟子たちは様々…

たかぱん
3か月前
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エマオ行きの道にて

イエスの復活を記念する礼拝となると、イエスに会いに行く女たちや、ペトロなどの弟子たちの姿…

たかぱん
1年前
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マタイ受難曲

塾業界に(と大きく出たね)、正月休みというものはない。いや、一応休暇はあるが、ゆっくりでき…

たかぱん
1年前
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受難週の祈り

十字架を巡っては、様々に思うことがある。深く感ずるところがない、というのは、キリスト者と…

たかぱん
1年前
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立ち上がるところに

受難週に入るのだが、選ばれた聖書箇所は、エゼキエル書と、マルコによる福音書の、バルティマ…

たかぱん
1年前
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洗礼と命

私はかつて60分以上の礼拝説教が当然だった環境にいたこともあるので、50分ほどの説教をさほど長いとは思わないが、その説教者の最近の説教の中では、長かったものだと思われる。従って、その全部をご紹介することはできないし、またする必要もないだろう。あくまでも、これは私のレスポンスなのだから、特に、いくつかの点だけに触れていけばよいだろうと思う。   マルコによる福音書の10章、ゼベダイの子ヤコブとヨハネがイエスに、いわば抜け駆けの「お願い」をする場面に浸ろう。ともすれば、この二人の